日本の土壌と文化へのルーツ㊿ 中国文明以来の果実 桃

東邦大学医学部
東洋医学研究室
田中耕一郎 
 

食用として歴史が短い桃

 桃と聞けば、果肉の蜜のような甘さを連想する場合が多いかもしれない。しかし、現在のような甘い桃を食べられるようになったのは、明治期以降にもたらされた外来種との交配による品種改良の成果であり、桃の歴史からすれば最近の事である。

 「桃は縄文時代の、今から約6000年前ごろの長崎県の諫早半島に付け根にある伊木力遺跡から出土しており、その後弥生時代には急速に西日本からその栽培地域を拡大していき、弥生時代後期には長野県、東京都、群馬県、新潟県にまで達している。」1)

 食用が一般的となる以前の桃は一体何に用いられていたのであろうか。

桃の産地

 日本国内での桃の生産量(2019年)は、山梨県(28.5%)、福島県(25.0%)、長野県(11.1%)となっており、3県合わせると約65%に当たる。もともとの原産地である中国の環境と合わせてみてみよう。

 「桃は梅と同様に原産地は中国で、縄文時代にはわが国に渡来していた樹木である。梅が稲作の起源地である長江中・下流域から高い水田稲作の栽培技術をもった人びとに伴われてきたと考えられるのに対し、桃の原産地は中国北部の黄河流域にあたる陝西省・甘粛省にまたがる標高600-2000メートルの高原地帯である。」1)

 栽培は必ずしも、原産地の気候と同様出なくても可能であるが、原産地と似た気候の方が根を良く張る傾向があるようだ。山梨県、長野県はアルプスへの山岳地帯であり、福島県も山地、丘陵地が80%を占めているため、標高600-2000メートルの高原地帯により近い。

 また、「(もともとの)桃は土壌の乾燥に強く、耐陰性に弱い。そのため、桃は本質的に柿や梨よりも一層に晴天に恵まれた乾燥気候を好み雨天の多い湿潤気候を嫌う。」3)という特徴もある。

かつての一大産地 神奈川県「綱島の桃」

 それでは、高原地帯でしか桃の栽培に適しないのかというとそういう訳ではない。明治期以降の桃の品種は日本の高温多湿にも適するように品種改良されているからである。神奈川県の綱島という場所がある。日吉、大倉山、新横浜にはさまれて立地している都心近郊の住宅街である。

 綱島では鶴見川の本流が流れ込んでおり、その上流には早淵川、下流には矢上川が合流することから、洪水に悩まされた農村であったという。「明治30年、クワイの苗を売りに来た行商人がいた。水害に悩む農民たちの状況を聞いたその行商人は、水害に強くこの地域の砂質の土壌に適した作物として桃の栽培を勧めた。当時の北綱島村名主、池谷道太郎はこの地域の窮状を救うためにこの桃に賭けてみようと思った。」2)というのが、綱島と桃を結び付けた縁であったという。池谷道太郎氏は、「植物学者を通じて西洋桃の苗木を数十種取りよせさまざまな栽培を試みた。明治40年、ついに新品種を発見した。それは病害に強く六月中旬より収穫でき、少面積で米代金の三倍強の収益をあげることができる。新しい桃は「日月桃」と名付けられた。」2)

 以後、安定した収入源として綱島全域に桃栽培が広がっていった。品質も非常に高く、大正11年東京博覧会で銅牌を受賞以後、数々の品評会を受賞し、昭和6年頃には日本一の生産量を誇っていたという。また、大正4年(1914年)にラジウム温泉が発見され、以後東京横浜電鉄、綱島温泉駅(現在の綱島駅)が開業し温泉街としても発展していく。

 しかし、昭和13年(1938年)の水害による甚大な被害、そして第二次世界大戦による桃などの嗜好品よりも米、麦などの食料需要の増大のため、多くの農家が桃栽培を取りやめていった。終戦後は、経済発展に伴う宅地造成、温泉旅館の増加に伴い、桃栽培減少しし、昭和40年になると桃栽培は池谷道太郎氏からの池谷家のみとなった。現在でもこの一軒が桃栽培を続けている。

 現在の住宅地として知られる綱島のイメージから想像しがたい歴史である。更なる再開発が進む中、古き良きものをそれぞれの街に残していくことも大切なことのように思える。

今も残る日月桃

日月桃記念碑由来

原産地からの桃の伝播

 桃は、原産地である中国黄河流域の高原地帯からどのように伝播していったのであろうか。日本に伝わるまでの経路は主に三つに分類することができる。まず、第1の経路は、「縄文時代の終わりに中国から渡来し、弥生時代にはほとんど全国に伝播していたとみられる品種群である。花は観賞用となり、果実は食用・薬用とされたが、果実は小さく品質もあまりよくなかた。現在は在来種として、台木に使われたり、花桃(註:花の観賞用)として栽培されたりしているものである。」1)

 第2の経路は、「明治のはじめに中国から導入された上海水蜜桃、天津水蜜桃などの水蜜桃品種群であり、現在の桃品種の遺伝的な源泉となった。」1)

 第3の経路は「水蜜桃群と同じように明治期以降に導入されたヨーロッパ系品種群である。原産地の桃は紀元前にシルクロードを通ってペルシアに渡って栽培され、ペルシア系品種群となる。ペルシアの桃はその後ギリシアを経てイタリア、フランス、イギリスにわたり、11世紀にはスペインに伝わりスペイン系品種群となった。16世紀にはヨーロッパからメキシコ、アメリカに伝わった。」1)

 第3の経路の中継地点であるペルシアにおいて栽培種が野生化していた桃から、テオフラストス、プリニウスはペルシアが原産地と誤認したため、桃にはPrunus persicaという学名がついている。」3)

 黄肉種については、「『海録砕事』および『旧唐書宗記』唐の貞観年間(7世紀)に西域(中央アジア)の一章国である康国(現在のトルキスタンのボクハラ)より太宗に黄肉桃を献上したが、鵞鳥(ガチョウ)の卵のような大きさで黄金色を呈し、金桃と呼ばれた。」3)という記述がある。トルキスタンにて品種改良された黄肉桃が、中国、欧州へと伝わったという説がある。この金桃を実らせる木は、長安の宮廷果樹園にも植えられたという。

 ネクタリン(Prunus persica var. nucipersica)は油桃ともいわれ、中央アジアから地中海沿岸へと広がって行った。

食用桃の品種

 「伝播した世界各地では、その土地の気候風土に適した多くの品種が育成された。」1)

 中国の国内、そしてシルクロードを西にヨーロッパへと広がった種では食用での品質は大幅に向上した。一方、中国から東に伝来し日本に定着していた在来種は、食用には向かなかったようである。「果形堅くして酸味多く過重に乏しく品質極めて劣等」(恩田徹彌『果樹栽培史』1915)と書かれている。

 明治時代以降に、第2の経路の中国から主に2系統がもたらされた。一つは華北系品種で、「天津水蜜桃」に代表される夏の乾燥条件に適した品種である。華北系品種はあまり日本の気候には馴染まなかった。もう一つは、華中系品種でさらに二つに分類される。「上海水蜜桃」に代表される温暖湿潤気候に適した上海系品種と、蟠桃系と呼ばれ、上海から南の海岸線に素って栽培される亜熱帯気候に適した品種である。1)

 第3の経路である欧米からは、黄肉種、果実に毛のないネクタリン等多数の品種が導入された。

 大正6年(1917年)ごろからこれらの種の交雑育種が開始され、明治期に導入された上海蜜桃とヨーロッパ系品種の交雑により生まれたのが、現在、食用として普及した日本的品種群1)である。

 「現在の栽培品種は、明治時代に中国や欧米から導入されたものが元になっている。とくに中国から導入された「上海水蜜桃」(註:華中系品種)、「天津水蜜桃」(註:華北系品種)から、日本の高温多湿な日本の気候条件に適した‘白桃’などの品種が育成された。近年は、‘白桃’を母親とした‘あかつき’、‘川中島白桃’などが上位を占めている。」5)

 ネクタリンは、長野県でそのほとんどが栽培されている。 

不老長寿伝説の桃 蟠桃

 華中系品種の一つとされる蟠桃(Prunus persica var. platycarpa)は円盤状の特徴的な形状をしている。中国には蟠桃をめぐる伝説がある。

 「蟠桃は、中国の神話・伝説で天界の蟠桃園になるモモで、三千年で熟した果実を食べると仙人になり、六千年で熟した果実を食べると不老長寿となり、九千年で熟した果実を食べると不老不死になる。このモモは中国古代から信仰された女神で崑崙山に住む西王母の誕生日(三月三日)に開かれる蟠桃会で、お祝いに集まった神々や仙人に供される。」6)『西遊記』では孫悟空がこの蟠桃会に用いられる桃を食べつくしてしまうエピソードがある。

観賞用としての桃

 食用よりもより長い歴史を有するのは、花の観賞用としての桃である。

第一の経路である桃の在来種は食用としてではなく、江戸時代には観賞用として改良がなされていった。江戸時代に日本では食用の桃よりも、花桃の改良の方が盛んであった。食用の桃が実桃とされるのに対し、花を愛でるこの桃は花桃と呼ばれる。

 「現在のわが国の桃は、果実は稔るけれども食用とされず、もっぱら花を観賞するための桃花と、もっぱら果実を賞味するための実桃の二つに大分けすることができる。花桃とは渡来してから江戸期まで栽培されてきた品種のことで、現在では在来種とされ、その果実は明治期以降に栽培されるようになった果実とはこれが同じ桃かと思われるほど大きさも味も違っている。明治期に中国やアメリカ等の外国から、たくさんの外国桃が導入され、それを元として改良が行われたからである。」1)

 3月3日は桃の節句と呼ばれる。もともとは中国の五節供(せっく)の一つで、上巳の節という中国から奈良時代に伝わった式日である。ちょうど旧暦(太陰暦)の3月3日は、新暦(太陽暦)では、4月の中旬頃に当たり、桃が花盛りの季節であった。中国では曲水宴といって、桃花が咲き誇る中、屈曲した水流に臨んで、文人たちが並び合って座をしめ、上流から盃を長し、目の前を盃が通り過ぎる前に詩を作り、その盃をとって酒を飲む宴である。日本ではこの日に独特の文化的・民族的行事として、「雛祭り」が行われている。1)

 花桃の品種は、食用と同様に豊富であり、普通品種、箒立ち品種、枝垂れ品種、カラモモ、一歳桃に分けられる。1)江戸時代には、中野に桃園が作られ桃花の名所であった。他に日光街道筋の越谷や、江戸川の東側にあたる下総の流山も桃花の見所として知られていた。1)

桃の“毒”

 桃栽培していた跡地に新たに桃の木を植えると枯れてしまう。また、桃の木の下は雑草が少ないとされている。美しい花、甘い果肉という人を惹きつける“誘惑”の背後に“毒”を有している。桃の二面性の“毒”は、食用、観賞用よりもはるかに長い使用法と関係がある。この“毒”とは何であろうか。まずどのような現象なのかみてみよう。

 「桃は産地変遷といって、時代と共に産地が移動するとされている。昭和初期の主産地は神奈川県、岡山県、広島県の順であったら、昭和30年(1955年)には岡山県、山梨県、福島県、高知県、香川県の順になり、さらに昭和60年(1985年)には福島県、山梨県、長野県、山形県、岡山県となったのち、平成22年(2010年)現在では山梨県、福島県、長野県、岡山県の順となっている。」1)

 「これには自然的、社会的要因が関わっているが、その一つに連作障害がある。桃樹は寿命が短いため、桃園は改植(品種を改めて植え替えること)の機会が多い。ところが桃の跡地に再び桃を植えると、樹が衰弱死、はなはだしいときには枯死するので、同じ園地に栽培し続けることが困難となる。この現象は嫌地(いやち)とよばれる」1)

 この嫌地の原因は、桃が周囲に青酸配糖体という“毒”を撒いているからなのである。

 「桃樹の根が枯死あるいは腐れると、(註:桃樹の根に含まれる)プルナシンが青酸とベンツアルデヒドに分解し、さらに安息香酸を生じる。これらはいずれも改植した桃樹の根の呼吸を著しく阻害し、樹を弱らせる。プルナシンの分解は、桃樹の栽培地に水が溜まるなどにより土壌中の空気の流通が滞るとさらに促進される。また土壌線虫の根腐れ線虫は根を食害するだけでなく、根中のプルナシンを分解して、前期の有害物質を生じさせるので被害は大きい。」1)

 また、「桃の木の下には雑草が少ない。それは根に含まれる青酸配糖体であるアミグダリンが分解して青酸が発生するためである。これによって、他の植物は生えることが出来ず、桃は地表の養分を一人占めすることが出来る。自分の縄張りを化学的に維持する手段であり、これをアレロパシーという。」7)

 桃はアミグダリン、プルナシンという青酸配糖体を合成している。これは果実や根に含まれており、土壌の微生物などによって分解されると毒性を発揮し、他の植物の発芽や成長を阻害する。桃は自分の領地を守るために、他の植物はもちろん、同じ仲間に対しても容赦しないのである。しかし、アミグダリンこそが桃が重用されてきた理由でもあるのである。

最も長い歴史をもつ薬用としての桃

 桃が長く用いられてきた用途は、美しい花を愛でるためでも、甘い果肉を楽しむためではない。むしろ二面性の裏の部分、“毒”と関係がある。それは薬用である。もう一つは“魔除け”として呪術などに用いられてきた。桃は、「邪悪なものを避けることができるとする中国由来の習俗がある。」1)鬼もアミグダリンを恐れたのであろうか。

 自然界のあらゆる存在の薬効を分類してまとめ上げた百科全書、『本草綱目』という書物がある。その中には、鉱物、植物、動物はもちろん、人間の頭髪、排泄物なども掲載されている。果実の項目の中には、桃ももちろん紹介されている。

 「桃は、蕾も花も、葉っぱも、若い枝も、種子(仁)も、根っこも、樹幹から分泌される樹脂も、みな薬となるのである。蕾は乾燥させて利尿剤に、花はごま油につけて洗顔に使えば肌がうつくしくなる。種子の仁は桃仁と呼ばれ、浄血剤である。」1)

 東洋医学での一般的な用いられ方は種子である。“浄血剤”という言葉が最も分かりやすいが、専門用語では駆瘀血薬、活血薬などと呼んでいる。主に婦人科疾患に用いられ、月経周期、痛み、そして興奮性の精神症状にも用いられてきた。桃仁を含んだ代表処方には、桂枝茯苓丸(けいしぶくりょうがん)、桃核承気湯(とうかくじょうきとう)がある。

中国の3世紀頃の慢性疾患の病態と治療法を示した書物『金匱要略』には婦人科の子宮筋腫に対して、桂枝茯苓丸(けいしぶくりょうがん)、“感染症治療マニュアル”的存在の『傷寒論』には感染症に伴う精神症状に対して桃核承気湯が紹介されている。

結語

 桃は、原産地である中国黄河流域の高原地帯から6000年前には日本に伝わっていた。しかし、人々が甘い果肉を楽しむようになったのは、明治以降の外来種との交雑による品種改良によってである。桃はむしろ薬用としての歴史が最も古く、続く用途としては桃花の観賞用であり、江戸時代になって品種改良が盛んに進められた。食用になったのは、明治になって新しく中国から入ってきた品種、中国から西に中央アジア、ヨーロッパへと伝わってきた欧州の品種と交雑することによって味が格段に向上したためである。桃は視覚、味覚を楽しませてくれるが、一方で青酸配糖体を含む“毒”を有する薬用植物という二面性を有している。薬用には桃の種子が婦人科疾患や感染症時などの興奮性の症状の改善などに用いられてきた。

Abstact

Peach was introduced to Japan 6000 years ago from the plateaus of the Yellow River basin, which is the place of its origin. However, it was only in Meiji era and after crossbreeding with other exotic fruits that people came to enjoy the sweet pulp. Rather, peaches have the oldest medicinal history, and the next use is for ornamental peach blossoms, and breeding for better blossoms were actively promoted in the Edo period. It became edible because the taste was significantly improved by crossbreeding with varieties newly introduced from China in the Meiji era and with the European varieties spreading from China to Central Asia. Peach is pleasing to the sense of sight and taste, but on the other hand, it has the duality of being a medicinal plant with a "poison" containing cyanogenic glycosides. For medicinal purposes, peach seeds have been used to improve gynecological diseases and excitatory symptoms during infectious diseases.

参考文献

  1. 有岡利幸:ものと人間の文化史157 桃,法政大学出版局,2012
  2. 綱島の桃の歴史
  3. 小林章:文化と部だもの 果樹園芸の源流を探る,養賢堂,1990
  4. 間荢谷徹:果樹園芸博物学,養賢堂,2005
  5. 伴野潔、山田寿、平田智:果樹園芸学の基礎,農文協,2013
  6. 川内浩司:さあ行こう、シルクロードへ ユーラシア大陸横断記,文芸社,2014
  7. 高橋英一:「根」物語 地下からのメッセージ,研成社(1994)

投稿者:田中耕一郎

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