日本の土壌と文化へのルーツ57 近江 食と文学
2022年10月01日東洋医学研究室
田中耕一郎
近江の思い出 浮御堂とモロコ
わずかの間であったが、小学生時、滋賀県の堅田に住んでいたことがある。当時は、時間がゆっくりと流れており、学校の帰りや週末に釣りをしてのんびり過ごしたものであった。釣りと言っても浮御堂近くの湖岸で、リールなしの釣り竿にミミズをつけて、釣り糸を垂らすだけである。湖岸でバランスを崩し、そのまま琵琶湖の水中に落下したこともある。釣りは上手くはなかったが、数少ない経験の中で覚えているのは、モロコという小魚である。釣れたモロコをそのまま持って帰ってはみたものの、美しい銀色の姿をみるにとても食べる気にはなれずない。そのまま小さな桶の中に入れて、毎日眺めていた。もし、元気がなくなったきたら料理しようということにしたが、そのモロコは餌もない中、いつも小さな桶で数週間も元気に泳ぎつづけていた。「これは普通のもろこではないのではないか」、とついには畏れを感じるようになり、結局、釣った場所へとお返しに行った。
このモロコという小魚、そして浮御堂の近江での深い関係は、当時は知る由もなかった。
現在では、モロコは、琵琶湖の子魚食の代表の一つであり、今では高級魚ともなっている。、平安時代に源信にとって建てられた浮御堂は、文学と関係が深い。紫式部は、『源氏物語』に、源信をモデルとした僧を登場させている。鎌倉時代に一休宗純が修行し悟りを開いたとされる興禅庵にも近い。また、江戸時代の松尾芭蕉は、近江を愛し、「鎖(じょう)あけて月さし入れよ浮御堂」という句もつくっている。
今回は、湖西の堅田を起点とし、南下して京に近い石山を巡って、文学の感性を研ぎ澄ました後、湖東へ歩みを進め、独特の瀟洒さを持つ、城下町近江八幡と食について触れてみたい。
反骨清貧の一休宗純と繁栄を謳歌する堅田
一休宗純(1394-1481)は、世俗化する禅に憤り、純禅を求め、17歳で清貧を貫く謙翁宗為に師事する。しかし、21歳のとき、謙翁宗為が他界してしまう。失意の念の中、石山寺に参詣後、瀬田川(註:大津市で琵琶湖から流れる河川、京都で宇治川、大阪で淀川と名を変える。)で身を投げようとして、未遂に終わる。その後、決意して向かったのが堅田の華叟宗曇(かそうそうどん)の興禅庵である。
当時の堅田は、琵琶湖の漁業権や船舶の取り締まりの関務権、船を安全に運行させる上乗権を有していて、莫大な財力を有していた。また統治にあたる殿原衆と全人衆(農民や漁師、手工業者、商人の組織)、両者相まって繁栄していたとされる。水上勉氏は、当時について、『当時日本国でもっとも新しい息吹のあった堅田』とまで表現している。1)
堅田の繁栄の中にありながら、華叟宗曇は、破れ庵に近い道場を守り、座禅三昧の厳しい修行の中、食うにも困る状態であったという。華叟宗曇に入門を許された一休宗純は、二十五歳の時に悟りを得、「一休」の道号を与えられた。その興禅庵は現在、祥瑞寺として、浮御堂(満月寺)の西北にある。
「堅田時代の一休は彼の二十代のことで、後年の独自の禅風を形成する重要な修行期にあたっていたと思われる。」2)一休の禅は、新しい息吹となっていった。
2)「鎌倉新仏教のうち、臨済宗は南北朝以降、幕府の保護で体制仏教となり保守化した。そのなかで、特異な教風で一世を画した。」2)
浮御堂と紫式部『源氏物語』
浮御堂の由来は、「平安の世、恵心僧都源信が湖上の安全と衆生済度を願って建てたのが浮御堂の始まり」3)とある。紫式部はこの源信をモデルにしたとされる。
「『源氏物語』の宇治十帖に登場する横川の僧都は源信がモデルとなっており、浮舟は横川の僧都のもので出家するのである。」3)
紫式部が作家活動を始めたのは、夫との死別がきっかけとされている。
「彼女の回想(註:紫式部日記による)によれば、夫藤原宣孝と死別後の数年間は沈鬱な物思いにふけりがちであった。二人の間に生まれた賢子はまだ幼く、将来への不安は増すばかり、四季の訪れがようやくわかるくらいの心もとない日々を送っていた。ところが、つまらない物語を書くようになってから物思いから救われるようになった、というのである。」3)このように紫式部にとって文学表現とは、まさに自らへの治療行為でもあった。
「彼女にとって書くことはカタルシス(浄化作用)であったのかもしれない。」3)
同時に、紫式部は、物語表現の更なる深化を目指していたとされる。また、当時のジェンダーギャップにも果敢に挑んだ作家ともいえる。
「それまでの物語は、「女子どもの慰み物」と低く見られていたこともあり、物語の好きな紫式部にとって不満であった。しかも『蜻蛉日記』(註:紫式部が今までの物語と異なった、内面を深く描写した作品に衝撃を受けたとされる)の作者、藤原道綱の母は式部にとって母方の祖父と義理の姉弟に当たる人であった。彼女が、私もこのような、人の心の内部に深く立ち入ったもの、人間の真の姿を描いてみたい、と思うようになったとしても不自然はない。」3)
都びとの間での評判と宮仕えでのスランプ
紫式部の表現の新しさは京でも高く評価されることとなった。
「新しもの好きな都びとの中で紫式部の評判は瞬く間に広がっていった。(中略)『作り話であることには違いないだろうが、なぜかしら読み終わった後に、人の世の真実が語られているように思え、深い感動を覚えずにはいられませんわ。』」3)
しかし、その高い評価と裏腹に、日常における周囲からの嫉妬と執筆への重圧にさいなまされることとなる。
「『源氏物語』の執筆は、宮仕えを始めた式部にとってももはや命じられた大きな仕事であった。だからこそ、宮中でもおおっぴらに執筆が許されたのであり、執筆のためにいろいろと便宜がはかられたのである。が、そのことはまた、紫式部を苦しい立場に追いやることになっただろう。『何かといえば物語。物語を好み、風流ぶってすぐ歌を詠む。ほんとうに気取りやで嫌な人』、『受領の娘のくせにお高くとまっていること』後に式部を理解してくれる女房が現れはするが、彼女の宮中での評判はよくなかった。」3)
追い詰められた紫式部は、藤原道長の後押しもあってか、近江の石山寺へと向かう。「式部の筆が進んでいないのをそれとなく察した(註:藤原)道長が、石山寺行きを進めた可能性はおおいに考えられる。」 一休宗純の場合と同様に、京から少し離れた琵琶湖湖畔は、人生の転機につながる大きな示唆を与えてくれる場所なのかもしれない。
「石山寺には、古くから紫式部が『源氏物語』を書いた場所として有名な伝承がある。」3)石山寺において、紫式部は執筆への意欲を回復させていく。紫式部が影響を受けた『蜻蛉日記』には、石山寺を照らす月光が描かれている。このような風景も、創作を鼓舞する力rとなっていった。
「石山寺にお参りし、理想の物語を書き続けていけるようお願いしたい。できることなら日記(註:『蜻蛉日記』には石山寺の様子が描かれている)に綴られているような美しい月光を目の当たりにしながら物語の筋を展開させてみたい。」3)
「物語を綴っているときだけが、生きている充足感が感じられたと記す紫式部。彼女が全身全霊を打ち込んで書き続けた大長編物語は千年を経た今もなお、物語の真髄、人間の生きる姿への深い感動を与えてくれる。」3)
紫式部にとっては、物語を書くことそのものが、生きることであった。純禅に身を投じ、自由奔放に生きた一休とはまた異なる決意を感じさせてくれる。一方で、両者にとっても、、そうせざるを得ない自己の精神的な開放を必要としていたとみることも出来る。
俳諧の芭蕉、蕪村と近江
松尾芭蕉(1644年~1694年)にとって、この世は仮の住まいであったが、それでも近江での滞在は長かったようである。
「芭蕉は漂泊を一代の目的とおもいさだめつつも、各地で仮住まいしている。死の四、五年前から近江へのつよい傾斜がはじまり、『奥の細道』の旅を終えた後、元禄二年(1689)、四十六歳の歳の暮れは、膳所城下で越年した。その翌年、いったん故郷の伊賀に帰ったものの、春にはふたたび近江に出てきて、琵琶湖の南岸、石山の奥の山中の幻住庵に入り、秋までそこを栖家(すみか)とした。」4)紫式部と同様、近江の琵琶湖湖畔、そして石山は、文学的感性を研ぎ澄ますに良い環境なのかもしれない。
また、芭蕉も句の中で、近江の食である干鱈、氷魚(ひうお:鮎の稚魚)、菊の酢和えなどを詠んでいる5)
また、与謝蕪村(1716~1784)も近江の食を好んだ。その一つが近江の郷土料理の鮒ずしである。
鮒ずしや彦根の城に雲かかる 蕪村
鮒ずしとニゴロブナ
鮒ずしに用いられるのはニゴロブナという琵琶湖固有亜種であり、全長15-35cmである。「ふだんは琵琶湖沖合の底層に生息し、動物プランクトンやユスリカ幼虫などの底生動物を食べている。秋から冬にかけてはさらに深部に移動し、4~6月になると産卵のため岸の近くに移動する。降雨後の増水時に、ヨシ帯や内湖などの水草帯、水田などに侵入して産卵する。」6)
近江八幡などに行けば、地元の商店で自作のものを味わえる。一度臭いと味が好きになるとやみつきになる。鮒ずしは、いわゆる握り寿司のイメージとは全く異なる。チーズに近いというべきだろうか。一つ購入しようとして以下の質問をしてみる。
「冷蔵庫に入れなくても大丈夫ですか?」
「持ちますよ。普通のスシと思ってもらったら大分違うものですが・・・」
酢のない時代からの保存食なので実際には日持ちする。
鮒ずしの製法をみてみよう。
「今商品として売り出されているのはニゴロブナが多いですが、そのほかにゲンゴロウブナも使われており、四月になりますと産卵のため、フナの群れが琵琶湖の岸近くに近づいてきます。」6)
「そのとき漁獲しまして、ウロコと内臓を取り出します。卵はそのまま置いて取り出しません。そしてフナのはらの中に塩を詰めて、周りにも塩を塗って、スシ桶の中に塩をたくさn入れて、その中にフナを入れ、また塩を入れて、塩とフナがサンドイッチになった状態にして、それで落しぶたをして、重しを乗せます。そうすると水が上がってきますが、その水を取らずに、つかり空気と触れささないようにしておいておくわけです。」6)
「それで七月、土用のころになったらフナを取り出して洗って、塩抜きをします。そして今度はちょっと硬めに炊いた普通のうるち米のご飯をスシ桶に敷いて、内臓にご飯を詰めたフナを並べ、また今度はご飯を置くというふうにサンドイッチ状にしたものに重しをして、張り水をします。こうして空気から遮断して、長い間おいておくわけです。そうすると乳酸発酵します。それで酸っぱいフナにするわけです。」6)
「小さいフナだったら十月くらいに食べられますが、だいたいがお正月の前後になったら、ちょうど食べごろになってくる。」6)
遠く離れた西洋のドイツにとっても、馴染み深い味覚とのエピソードも紹介されている。
「ドイツ人たちが、『うまい、うまい』と言うんですね。匂いはと言ったら、『いや、この匂いはゴルゴンゾーラ(註:アオカビをつかったブルーチーズ)と似ている』と。つまりあの癖のある匂いがするブルーチーズの一種と大変よく似ていると。だから全然抵抗感なしに食えるというのです。滋賀大学の方々が、このフナズシの匂いの研究をしたことがあります。その論文を見ますと、確かにフナズシの匂いには、チーズの匂いに共通した成分がたくさんある。そういうことで、どうもチーズを食べ慣れている人は、あまり抵抗感がなかったわけである。」6)
香り、味覚はチーズの食文化圏で馴染み深いというのは、食してみれば納得できる。
乳酸発酵で魚だけを食べるなれ鮓という保存食は、東南アジア起源で、稲作ともに日本に伝わった。ただ、なれ鮓の原料に鮒を用いるという点に近江の特色がある。
「ナレズシに使われる魚を見ると、近江以外では、圧倒的にアユが多く、文献的に観てもアユのナレズシが多く登場します。しかし琵琶湖周辺ではフナズシが主であり、これにさまざまな小魚のナレズシが加わります。この傾向は、考えてみれば当然のことで、水田を開発する環境が、多くの場合は河川流域ですが、琵琶湖の場合は、琵琶湖沿岸という他にない環境の元で水田開発が行われた結果、水田に誘われてやってくる魚の種類が生じたためと考えられます。」6)
近江と水田漁業
近江では琵琶湖の魚も釣る一方で、小魚を主体とした水田漁業も発達し、食文化にも影響している。
「水田および排水路で行う漁業を、水田漁業と呼ぶことにします。これまで観てきたように、琵琶湖の湖岸の水田地帯では、陥穽漁具を駆使した水田漁業が発達してきました。この担い手は多くの場合農民であり、商業的な漁業ではなく、自家消費と周辺消費を賄う漁業でした。このような漁業の特性が、実に多様な魚食の文化を生み出してきました。」6)
「陥穽漁具を使った水田漁業の特性に小魚も獲れると言うことがあります。また、自家消費を主とした漁ですから、獲れた魚は何でも食べる、ということが前提となっています。ここに小魚も余すことなく工夫して食べるという食文化が培われました。」6)
「海の魚を対象とした小魚文化としては、シラスを対象としたもの、キビナゴ、イカナゴ等がありますが、種類は限られています。これに対して水田漁業に関係しそうな小魚としては、ドジョウ、小ブナ、ウグイの稚魚、オイカワ、タナゴ類、コアユ、ヨシノボリ類、モロコ類、スジエビ等がいます。そしてこれらの小魚を対象とした料理としては、醤油と甘味料でじっくりと煮る、いわゆる佃煮が代表的なものです。」6)
小魚文化とホンモロコ
琵琶湖の小魚文化の代表の一つとしてのモロコについてみてみよう。琵琶湖固有種で、体長10~13㎝になるコイ科の小魚である。
「滋賀県内には、タモロコ、スゴモロコ、デメモロコ、イトモロコ、カワバタモロコ、そしてホンモロコの6種がモロコという名を持っているが、その中で最も美味しいとされることから、ホンモロコと名付けられたとする説もある。」6)
高浜虚子がモロコ(諸子)について句を読んでいる。
筏(いかだ)踏んで覗(のぞ)けば浅き諸子かな 虚子
これは春の句である。それは春にモロコは岸辺に集まるからである。
「ふだんは琵琶湖の沖合に生息し、動物プランクトンをおもに食べている。水温が下がる冬季には、沖合の深所で越冬する。」6)「産卵期は3月~7月で、琵琶湖の沖合から湖岸に群れをなして接岸し、一尾の雌に数尾の雄が追尾して、水生植物帯などで産卵する。」3)
「昔は大津の湖岸でも釣り人が並んで糸を垂れていた」5)とあり、モロコ釣りは春の風物詩であった。
もろこの調理法としては、軽く素焼きにして酢味噌をつけてかけるどろずかけ、煮付けなどがある。
古都の良さと味わい 開町の祖の人柄、敬愛と町のたたずまい
石山から湖東へと向かうと、かつて繁栄を極めた城下町を発祥とする近江八幡という商業都市がある。豊臣秀次が築城し、安土城下の楽市楽座に倣い、八万堀という水路を整備した。
「天正十三年(1585)、秀吉は血縁の秀次を近江二十万石に封じ、近江八幡の湖畔の八幡山(鶴翼山)に築城させた。築城にあたっては主人をうしなった安土城の城郭の一部を移し、さらには城下町形成のために町割し、安土城下の町民を移住させた。そのときに、湖に通ずつ外堀が掘られた。それが、八幡堀とよばれるこの堀である。八幡城は築城後十年で廃城となったが、この外堀だけは在所の暮らしの中に生きている。よしを刈にゆく人も、また内湖の洲のなかにある田を耕しにゆく人も、この八幡堀から舟で出かける。江戸期は、本湖(外湖)から三百石積みの船がこの堀に入ったといわれている。」4)
「八幡の町屋の主な部分は、織田信長の安土城下を移したもので、博労町、永原町、小幡町などは安土とも共通する地名である。しかし、安土城下では家臣団屋敷と町人居住地が混在していたのを、八幡では完全に分離し、八幡堀(内湖である西の湖と琵琶湖を結ぶ運河)より北側を武家屋敷、南側を町人地とした。」2)
八幡堀の南北の街並みは、今でも当時の雰囲気を残している。
そして、豪奢でない落ち着いた街並みは近江の文化によるものであろう。
「たがいに他に対してひかえ目で、しかも微妙に瀟洒な建物をたてるというあたり、施主・大工をふくめた近江という地の文化の土壌のふかさに感じ入ったのである。」4)
また、秀次のその後の数奇な運命も、近江八幡の街並みに独特の味わいを偲ばせてくれる。
「天正十八年(1590)、秀次は小田原城陥落に伴う国替えで、北畠信雄の旧領である尾張・北伊勢に転封となり、翌年十二月には秀吉に関白を譲られ京都の聚楽第に入っている。しかし、関白となったわずか一年半後には秀吉に嫡男の秀頼が誕生したため、高野山への追放、そして自害、と彼の人生は大きく狂うこととなる。」2)
「(註:秀次の後に城主となった)京極氏の八幡支配もつかの間、文禄四年(1959)七月、秀次は自害させられ、八幡城も破却され、廃城となった。秀吉は、秀次をしのばせる一切を末梢したかったのであろう。こうして八幡は城下町ではなくなったが、琵琶湖水運に恵まれた港町、湖東の物流の中心として繁栄した。」2)
「秀次の八幡城在城はわずか五年という短期間であったが、後の人生の変転を思うと、彼自身、最も幸福な時間だったのかもしれない。また、八幡山山頂付近には秀次の母ゆかりの尼寺・瑞龍寺があるなど、近江八幡市民にも城下町生みの親である彼を慕う気風がのこっているのである。」2)
城下町としての歴史は短かったものの、その後、近江商人と言われる商業の人材を多く輩出していった。
「中世封建領主の自由商業政策である楽市楽座によってつちかわれた進取の精神にとんだ商人たちが、ここを根城に全国へ、そして海外へと雄飛していった。」4)
赤こんにゃく
近江八幡の名産として知られるのは赤こんにゃくである。「煮ても煮汁が赤く染まらない特色がある。」7)
「17世紀はじめころには、こんにゃくの凝固剤は草木灰のあくが一般的であったが、近江では石灰が使用されていたことは、近江が古くから良質の石灰を産したここと関連があると思われれる。八幡のこんにゃくは赤いものなので、「赤こんにゃく」といわれ、べんがら(酸化第二鉄)が着色料として使用されているが、これは信長の派手好みに合わせたとか、精進料理の魚の刺身に似せたとかの説があるが、正確な由来は伝わっていない。」7)
気泡を多く含んでいるため、普通のこんにゃくと触感も違い、味がしみやすい。
近江牛 “薬”としての歴史
近江牛として知られるが、由来は江戸時代に遡る。
「牛の食用の歴史は古く、仏教思想から牛や豚を食さなかった江戸時代から、養生薬として食されていた。」5)
「江戸時代、湖東、湖北の一帯は徳川幕府溜間詰格(たまりのまづめかく)の筆頭という譜代大名として最高位にあった井伊氏が納めており、彦根藩は、幕府の、幕府の陣太鼓に使う牛皮を毎年献上するのが役目になっていた。そのため、『江戸時代、公式に牛の屠殺が認められた唯一の藩』(市川健夫著、『日本の馬と牛』より)であり、陣太鼓用に若牛が屠殺された。皮をとったあとの肉を、彦根藩では干し肉や味噌漬けに加工し、将軍家や御三家へ薬用として献上していた。肉食が禁じられた時代において、どうして彦根牛だけ食用が認められたかというと、肉のかたちはしていても、それはあくまで『薬』であったからである。」5)
近江牛は養生薬として始まった。時代の制約の中、方便であったともいえるが、衰弱した身体に必要な場合もあったのではないかと考えられる。
結語
湖西の堅田に始まり、南下し石山を巡って、湖東へと向かう商業都市、近江八幡の食について触れてみた。京から少し離れ、琵琶湖を擁する近江には、文学的感性を研ぎ澄ますと同時に、淡水魚の種類も豊富であり、独特の食文化がつくられている。一休宗純は純禅の基礎を堅田で形成し、紫式部は宮中の重圧の中、石山で文学的感性を回復した。鮒ずしの製法は古来の保存食として、今でも郷土料理として親しまれている。春の風物詩であったモロコも、今でも煮つけなどで食することができる。それらは芭蕉、蕪村の俳句にも詠われている。
Abstact
Starting from Katata in the west of Lake Biwa, I described the food and its history about Ishiyama, which is located near Kyoto, in the south and Omihachiman, traditional commercial city, in the east of Lake Biwa. Omi, which is a little far away from Kyoto, has a unique food culture by an abundant variety of freshwater fish and its scenery sharpens its literary sensibility. Ikkyu Sojun formed the foundation of pure Zen in Katata, and Murasaki Shikibu recovered her literary sensibility in Ishiyama under the pressure of the imperial court. Funazushi is a preserved food that has been used since ancient times and is still popular as a local dish. Moroko, which was a seasonal tradition of spring, can still be eaten boiled. They are also written in the haiku of Basho and Buson.
参考文献
- 一休さんのくにプロジェクト 瑞祥寺 https://katatakankokyokai.com/193/4.html
- 今谷明:近江から日本史を読み直す,講談社,2009
- 畑裕子:近江旅の本 源氏物語の近江を歩く,サンライズ出版,2008
- 司馬遼太郎、白洲正子、水上勉:近江字散歩,新潮社,2018
- 篠原徹:琵琶湖と俳諧民族史—芭蕉と蕪村にみる食と農の世界,サンライズ出版,2021
- 滋賀県ミュージアム活性化推進委員会編:おいしい琵琶湖八珍 文化としての湖魚食,サンライズ出版,2015
- 日本の食生活全集 滋賀編集員会:日本の食生活全集25 聞き書 滋賀,農山漁村文化協会,1991
投稿者:田中耕一郎
カテゴリー:漢方薬と身近な食材