日本の土壌と文化へのルーツ55 天寿を全うするのに必要なこと

東邦大学医学部
東洋医学研究室
田中耕一郎 
 

天寿とは?

 2000年程前の東洋医学の医学書『黄帝内経』(こうていだいけい)は、次の文句で始まる。「上古の人は皆100歳まで生きられ、しかも動作も衰えなかったと聞いている。」 ここで言う上古とは、人類の生活がまだごく初期段階であったころを指している。1)これは天寿のような概念で、人間の心身は大切にすれば100年を生き切るようにつくられているというものである。

 2000年経過した現在に至って、改めて人生百年と言われるようになった。人間の心身は大切に使えば、十分に100年を生き切ることができる。これが東洋医学の立場であり、現代医学でもそのように考えるようになってきている。

 それでは何故、その天寿を全うすることができないのであろうか。2000年前も同じような問いがなされた。『黄帝内経』ではさらに続いて、「今の人は50歳という道半ばで衰えてくる。この違いは時代の違いのためなのか?それとも生活習慣の問題なのか?」

上古の寿命は、・・

 日本列島における縄文時代を例に当時の寿命についての見解を見てみよう。縄文時代は諸説あるものの、1万6000±850年前から、約3000年前を指しているために、『黄帝内経』の言う上古と重なる部分があるかもしれない。

 縄文時代の平均寿命に関しては、「縄文人寿命30歳説」がある。これは、1967年に発表された「出土人骨による日本縄文時代人の寿命の推定」に基づく推定年齢である。頭蓋骨の縫合線の縫合線の消失の有無、骨端の恥骨結合面の癒合、骨化状態の3点により推定された。2)

 1985年になって、より客観的な年齢推定法が開発された。それは、腸骨耳状面大小のくぼみ、穴の有無、輪郭が盛り上がりなどの形態変化を観察する方法である。といった変化があるようです。この年齢推定方法によれば、死亡時年齢34歳以下が32.1%で、35歳以上64歳以下が35.4%、65歳以上が32.5%となり、15歳時点での平均余命が31.52歳という結果となっている。2)当時の医療環境から考えれば、出産時や乳幼児期の死亡率は現在より高いことが考えられるため、平均寿命とするとかなり低く算出されてしまう。しかし、上古ですでに3割以上が65歳以上まで生きていたならば、100歳というのは単なる誇張された表現ではないのかもしれない。

天寿を全うするのに必要なもの

 感染症を代表とする疾病対策、冷暖房などの快適な居住環境など、天候不良に対する飢餓への対策など現代では、上古にはない良好な環境条件が揃っている。そして、『黄帝内経』が原則としている健康法は、一定の自然のリズムに従って心身を養生するというもので奇をてらったものではない。ただ、現在の社会的通念からすれば異なる部分があり、逆に学ぶことが多い。

 手っ取り早い治療法が尊ばれる現代社会ではあるが、2000年変わらず原則をつらぬいている『黄帝内経』のその一端を紹介したい。

仕事と休息のバランス

 『黄帝内経』には「起居に常あり、妄りに労をなさず」と書かれている。活動と休息の規則性をもたせ、妄りに働きすぎないという意味である。

 これは現代社会ではなかなか全うできない状況にある。一個人よりも組織としての経済活動が優先されれば、際限のない改善と拡大の中、休むという発想は仕事上の“おまけ”のような扱いとなる。組織に雇われていればその方針に従うことになるであろうし、個人で経営していれば、絶え間ないリスク管理の中、奮闘しなくてはならない。

 医療従事者においては、当直業務などで起床就寝のリズムを一定に保つのはやはり難しい。現役世代において、職務を全うしえたとしても、『黄帝内経』が嘆いているように、「今の人は50歳という道半ばで衰えてくる」、つまり、早々にして体力の衰えを感じてしまうのである。

精神生活の安定と深化

 『黄帝内経』では、精神生活のあり方を多く取り上げている。特に自分の中にある欲の制御を強調している。そこでは、「恬憺虚無(てんたんきょむ)」という言葉によって説明がなされている。恬憺虚無とは、心に不信や不満、欲望などなく、穏やかで落ち着いている心の状態を指している。

 現代社会はこの「欲」を上手に生かすような仕組みがつくられているが、行き過ぎることがままある。日々の生活では、「欲」を誘発するような情報が行き交い、五感は刺激され続ける。仕事において、他者から評価されたいという「欲」が、過度に自分の価値基準となると、人間関係の様々な軋轢と、個々人の心の中にも不信、不満がつのり、怒り、悲しみ、憂い、恐れなど様々な感情が誘発される。

『黄帝内経』に基づけば、それらからは、一歩身を引き、安定した精神生活を目指すことが必要になる。

 東洋医学では、「気」というエネルギーの営みによって生が営まれていると考えられている。そのため、通常の精神生活では「気」は激しく動き消耗する。例えば、怒りを感じた時には、“気”は頭に向かって上昇し(頭にくる)、驚けば“気”は各方向に乱れて(気持ちが動揺する)、恐れれば“気”は下降する(腰が抜ける)、思い悩めば、“気”はしこりとなる(気持ちが痞(つか)える)。口語で使われているこれらの言葉のニュアンスは、そのまま「気」の動揺を表したものである。東洋医学においては、過度の肉体労働と同様に、精神生活を適正に制御しなければ、「気」は激しく動き消耗すると考えられている。その根本にあるのが、「欲」である。

 『黄帝内経』では、恬憺虚無に沿う上古の人の生活習慣として、次のようなものを挙げている。「食べたものを美味しく思い、着たものを着心地良く思い、習わし(註:日々の生活)を楽しみ、地位の高低をうらやむことがなく、人々はいたって素朴で誠実でした。」
上古に比べ、現代では「食べたものを美味しく思い、着たものを着心地良く思」うには十分な生活環境が用意されているのではないだろうか。「欲」を助長する傾向のある現在において、「欲」は我々の病とも深部で関係しているように思える。

『老子』にも「足るを知る」(何事に対しても満足する)という言葉がある。『老子』は紀元前5世紀頃に書かれた書物とされている。そして、5世紀を経て『黄帝内経』においても、人間の「欲」をどう扱うかがテーマになっているのである。

道教と仏教

 『黄帝内経』の哲学的背景には道教的な影響が見られるが、仏教との関係はどうであろうか。インドで発祥した仏教は中国へも伝わったが、結果的にあまり普及しなかった。中国では比較的現世利益的なものが好まれるのか、インドの虚無的な哲学感は馴染まなかったのかもしれない。しかし、仏教と道教とは哲学的には近い方向性を有している。いずれも分別智に否定的で、形而下の「私という主体が存在し、この身体や思考を制御している」を誤った思い込みと取られ、結果として物事が混乱し、悪化していくと考えている。3) 言葉によって境界線が出来、価値判断が生まれ、現実が創造される。道教ではこれらを虚妄ととらえている。日常の感覚で取らえられる「私」とは、自我にとらわれた仮の私であり、本当の「私」とは、無分別の先にあると考えている。無分別が極まって、自然と一体化したような状態を「道」と呼んでいる。道教では現実に存在しているような物質世界よりも、無分別を極めた精神のあり方を尊重したのである。

性生活の節制

『黄帝内経』では、性生活の節制には手厳しい。例えば、天寿を縮める習慣として、飲酒後の性行為を上げている。「酔っては房事を恣(ほし)いままに行い、色欲のおもくくままに」と続いている。それでは、どうして、飲酒後の性行為と天寿が関係するのであろうか。
東洋医学の“腎精”という概念に基づいた考え方である。“腎精”とは、父母から与えられた“潜在的な気”、それを使い切れば一生は終わるという考え方である。父母の健康状態により先天的に与えられた“腎精”は個々人によって異なっている。その与えられた“腎精”を日々節約しながら、与えられた天寿を全うすることが東洋医学的な健康観である。

“腎精”は生殖行為によって消耗する。特に飲酒によって無理に鼓舞された性欲によって行う性行為が“腎精”にダメージを与えるとされている。東洋医学独特の考え方である。

 日常生活でも、性欲を適正に維持し、性生活もペースを守ることが“腎精”の維持に大切とされてきた。江戸時代の貝原益軒は『養生訓』において、具体的に年齢別に性生活のペースを記載している。内容は中国の医学書が参照されており、「20代では4日に1度、30代では8日に1度、40代では16日に1度、50代では20日に1度、そして60代では行わないか、もし体力が盛んならば1月に1度」と書かれている。

生殖能力は?

 『黄帝内経』では、女性の閉経年齢は49歳を境として以後は子を宿せないとしている。2000年以上経過した現在でもさほど変化はない。生殖年齢からみれば、当時から人間の身体はさほど変化していないのかもしれない。一方、男性は64歳まで生殖能力を保持していると書かれている。現在においても、その年齢を待たずして、生殖能力が減退してしまうのは、過労、心労、性生活の不摂生と関係があるのかもしれない。

食生活

 『黄帝内経』では「飲食に節度」、「過度の飲酒を慎む」と書かれているものの、詳細には踏み込んでいない。一方で、東洋医学では「食気を食べる」という考えがある。それは生きているものの、季節において一番成長している場所を食べるという考えである。例えば、春は芽、夏は葉、秋は果実、冬は根菜といったものである。

 食生活については食材も知見も現在の方が豊富である。飽食の時代にあって反って節制が求められる事態となっている。食の分野においても、人の「欲」を制御することはなかなか難しい。

隠遁のレベル

 それでは、俗世間から離れて生活するのがよいのだろうか。とはいっても、働き盛りの世代には許されない俗な事情が多々ある。

『黄帝内経』では天寿を全うするため、上古における4つの異なる生き方を提示している。それは真人、至人、聖人、賢人の4つのタイプに分けられ、最初の真人、至人の二つは俗世から離れた生き方、聖人、賢人は俗世にあっての生き方である。

 真人は「道」に至り、自然のリズムと一体化したような状態で、年老いない境地と書かれている。(この辺りの真偽は定かではないが、上古にもかなりの長寿者が存在したのかもしれない。)

 至人は俗世を離れて、自然の変化に順応しながら、精神生活を安定させ、腎精を保持し、真人に次ぐ長寿を全うする。

 聖人は俗世に順応して行動しながらも、迎合しない。大自然の変化に柔軟に合わせ、精神的には安定して満足を感じ、悩み、恨み、憎しみなどの感情を生じることがない。過労や心労によって消耗するようなことをしないため、心身ともに衰弱せずに、天寿の100歳に至ることができるとされている。
最後の賢人とは、大自然の変化に順応して、上古の真人に従って養生することで、寿命は延びるが、限りがある。賢人は知識のレベルで習熟してそれを実践しているが、体感のレベルではまだ浅いといえるかもしれない。

 この4パターンから考えると、長寿者でも賢人のレベルがほとんどであろう。そして、賢人と聖人との違いは、深く安定した精神生活であろうか。雑念も浮かばない、爽快な精神状態のような、俗世では考えられないような境地を、唯々働くのではなく、俗世に生きながら深めていくことは人生百年時代には不可欠かもしれない。伝統的なインドのヨガや仏教の瞑想の中には精神生活を深める叡智が多く含まれている。

 これらの教えを形式上守るだけではなく、そのような自然観を体感し、身につけて、実践でしているというのが東洋医学的な教えである。

結語

 『黄帝内経』には、上古の人は100歳まで天寿を全うしたと書かれている。天寿を全うするために必要なものは何なのか?仕事と休息のバランス、精神生活の安定と深化、性生活の節制、食生活などが挙げられる。また、精神生活の安定と深化のために、俗世間から隠遁するべきなのか?『黄帝内経』では4つの生き方を提示している。2つは俗世間から離れる生き方、2つは俗世間にあっての生き方である。これらの示唆は現代社会においてもまだ学ぶべきところが多いと考えられる。

Abstact

In "Huangdi Neijing", it is written that the ancient people lived their lives until they were 100 years old. What do you need to complete your natural life? Balance between work and rest, stabilization and deepening of mental life, restraint of sexual life, eating habits, etc. Also, should we hide from the world for the stability and deepening of our mental life? "Huangdi Neijing" presents four ways of life. Two are ways of living cloistered away from the real world, and two are ways of living in the real world. It is thought that these suggestions still have much to be learned in modern society.

参考文献

  1. 南京中医学院編 島田隆司訳:黄帝内経 素問 上巻,東洋学術出版社,1991
  2. 縄文時代の人々の寿命について
    https://www.city.chino.lg.jp/site/togariishi/jomonlifespan.html#:~:text=%E5%88%86%E6%9E%90%E3%81%AF%E3%80%81%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3%E5%89%8D%E6%9C%9F,%E3%81%A7%E6%AD%BB%E4%BA%A1%EF%BC%89%E3%81%A8%E3%81%AA%E3%82%8A%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82
    茅野市縄文尖石縄文博物館
  3. 飲茶:史上最強の哲学入門 東洋の哲学者たち,マガジン・マガジン,2012

投稿者:田中耕一郎

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