日本の土壌と文化へのルーツ62 おふくろの味
2023年10月20日東洋医学研究室
田中耕一郎
緒言
平安時代の『更級日記』の作者、菅原孝標女(たかすえのむすめ)は、「母いみじかり古代の人にて(註:非常に考え方が“古い”人)」と嘆いている。いつの時代も子は親に対してそのような感じをもつのかもしれない。
しかし、時は立つ。
『徒然草』188段を見てみよう。
「若きほどは、諸事につけて、身を立て、大きなる道をも成じやうじ、能をも附(つ)き、学問をもせんと、行末久しくあらます事ども心には懸けながら、世を長閑(のどか)に思ひて打ち怠りつゝ、先づ、差し当りたる、目の前の事のみに紛れて、月日を送れば、事々成なす事なくして、身は老いぬ。終に、物の上手にもならず、思ひしやうに身をも持たず、悔くゆれども取り返さるゝ齢(よはひ)ならねば、走りて坂を下る輪の如くに衰へ行く。」
「将来にわたって、こうしたい、こうなりたいというような夢を持っているから、のんびりとかまえ、怠けて、目の前のことに紛れて月日を過ごしているとなにごとも達成できず、いつか年をとっている。その道のベテランになることもなく、いい暮らしを立てることもできず、ああ、しまったと思っても、もはや遅い。そうなると、まるで坂道を走り転がる輪のように衰えていくばかりなのだ。」(清川妙 意訳)1)
恐ろしいほどに時間は流れていく。皆平等に齢を重ねる。“いみじかり古代の人”であった母もである。
今回は時の流れの中で、縁のあった母という人から。「おふくろの味」をテーマにしてみたい。
おふくろの味とは?
おふくろの味とは、「幼少期に経験した家庭料理、もしくはそれによって形成された味覚、またそれらを想起させる料理」2)を指す言葉のようである。
「子どものころ、まな板の上でおふくろがトントンと野菜を切る音を布団の中で聞きながら目を覚ましたという思い出、割烹着のおふくろが床に膝をついてぬか床を混ぜる後ろ姿、おふくろがふっくらとした手で握ってくれたほかほかのおにぎり・・・・・」3)
おふくろの味で頭に浮かぶものは何であろうか。肉じゃが、味噌汁、卵焼き、漬物、カレーライスなどであろうか。私の場合は、鶏のから揚げがそれに加わる。おそらく出来合いの粉をまぶしたものであったであろうが、その味付けが舌に馴染んでしまっている。また、母の好みで卵焼きにも砂糖を入れなかったため、卵焼きといえば砂糖なしのものしか受け付けなくなっている。また、カレーライスは牛筋肉を用いるのを得意としていたようだ。漬物に至っては、細かく切った白菜と昆布を合わせて粘り気をつけ塩漬けにしたもの、父はそれを“かあちゃん漬け”とさえ名付けていた。非常に懐かしい思い出である。各々の幼少期にあって、おふくろの味、家庭料理は形作られているのであろう。
湯澤規子3)は、「100冊余りの料理本のタイトルを眺め、全体に共通する「おふくろの味」に付随するイメージや特徴、構成要素」3)を調べた。その結果、「「おふくろの味」の定義の拠りどころとなる場は、「ふるさと」「郷土」「家庭」であり、具体的な料理としては「煮物とみそ汁」「お惣菜」「保存食」「漬物」が並ぶ。作り方の特徴は「手づくり」「素材を生かす」ことであり、大切にしているものとして「親と子」「季節」「旬」などが挙げられている。そしてイメージを表す言葉として「懐かしい」「定番」「和風」などが使われている。」3)
“良妻賢母”とおふくろの味という幻想
実は、おふくろの味とはここ最近になって意図的に形成された概念であって、文字通りの“懐かしい母の味”も歴史上は幻想のようである。
特に“おふくろ”、料理の担い手としての“母” とは、ここ100年余りの歴史で形成されてきたもののようだ。
「結論からいえば、古代、中世、近世、近代、そして現在に至るまでずっと変わらず、「お母さんが料理をつくってきた」というのは実は誤った認識である。明治・大正期の世相の変化を描いた柳田國男(註:明治8年~昭和37年、日本民俗学の開拓者)は次のように言っている。
“温かい飯と味噌汁と浅漬と茶の生活は、実は現在の最小家族制が、やっとこしらえ上げた新様式であった。”(柳田國男:柳田國男全集26,筑摩書房,1997)
両親とその子どもだけが、構成員の、いわゆる「核家族」の誕生とそこで繰り広げられる料理や食卓の風景は、近代になってようやく登場した新しいスタイルだと柳田は言う。」3)
近代の女性像として、「「良妻賢母」という規範が広く普及するようになり、家庭の中での「妻」であり「母」である女性に求められる役割や規範は強化され、固定化していった。「家族の食事をつくること」も、その役割の中に含まれていた。」3)
この「良妻賢母」の由来については、明治以前の儒教的規範の女性像とは異なる近代的女性像として、明治の民法による夫婦別姓の廃止による家父長制への移行や、家庭での子の教育の担い手が父から母への転換していったことと関係しているという説がある。4)
「良妻賢母」的規範の中で、「近代以降の家庭料理の誕生がきっかけとなり、「お母さんがごはんをつくる」と多くの人が思い込むようになったのではないか」3)と、湯澤は仮説を立てている。
しかし、「良妻賢母」的規範の中にあっても、家庭での「女中」の存在と都市部、農村部の違いから、近代の「家族」で、「お母さんがごはんをつくる」スタイルが定着するのは、昭和の高度成長期以降になってからだと述べられている。
「昭和戦前期までの日本では、特に裕福ではない家庭でも「女中」がいることは珍しいことではなかったからである。家庭や主婦が誕生したこの時代(註:明治以降)でも、家事が複雑になっていけばいくほど、それを分担する女中が不可欠だった。昭和戦前期まで、女中は女工と並ぶ、女性の一大職業であった。そして、女中の重要な仕事の一つが炊事、つまり食事の準備だったのである。」3)
「こうした状況を踏まえると、近代家族、つまり「家庭」が誕生したことが、「お母さんがごはんをつくる」ことに直接つながったわけではなく。日々食べていたのは、女中がつくる食事だった場合も少なくなかったからだ。」3)
また、農村においては、「各地の農村漁村を回って聞き取り調査をすると、状況に応じて臨機応変に家族の誰かが食事の準備をするという話を聞いた。水道やガスがまだない高度経済成長期以前には、水汲みや炊事に多大な労力を要することもあり、田畑で一日中働く母親の帰りを待ちながら子どもたちがかまどでごはんを炊き、食事の準備をすることも珍しいことではなかった。」3)
良妻賢母、おふくろの味、家庭料理といった“常識”はつくられたものであり、どの時代においても、歴史を俯瞰しつつ、“常識”を相対化して社会を眺めるのも必要なことかもしれない。
おふくろの味の継承者としての女性
おふくろの味の継承として、嫁入り前に母から料理を学ぶというのも、高度経済成長期からの“幻想”のようである。歴史をひもとくと、実際には「家族総出、地域全体がその調理の過程に関わってきたことがわかる。」3)
湯澤によれば、おふくろの味の担い手が女性であるとみなされるようになった要因として、2つの要因を提示している。一つ目は、「1980年代以降に「ふるさとの味が地域資源として発掘され、そのレシピが共有されていく過程に各地の女性グループが積極的に関わったこと、第二は、「「ふるさとの味」や「おふくろの味」を伝えようとする様々なメディアが、いつの間にかその伝達先や継承の担い手として、女性を前提にしてきたことが挙げられる。」3」
高度経済成長期のメディアの中には、「主婦と団らんと「家庭の味」、母から娘という継承経路の形成、安心・安全など、社会情勢を反映したやや紋切型の語句が並ぶようになった。」3)
おふくろの味と家庭料理
おふくろの味の担い手が“母”となったのは、昭和の高度経済成長期であったが、「家庭料理」の誕生も明治以降であり、歴史はさほど長いものではない。
「「家庭料理」が誕生し、発達したのも西洋文化の影響を大きく受ける明治時代以降であった。それまでは穀物などの主食が食事の中心であり、日々のおかずにバラエティを求める必要もなかったため、日常食への関心が高まることはなかった。そこに、「栄養」や「衛生」に関する知識などの西洋文化が導入されると、日常食への関心が高まり、その実践の場が、新たに誕生した「家庭」に求められた。」3)
このように「家庭料理」とは、現代の栄養学の影響を受けて育まれた、新しい料理である。しかし、何故、懐かしいという響きを持つようになったのであろうか。
郷愁と都市化にみる「家庭料理」
おふくろの味、家庭料理という概念の誕生は、室生犀星(詩人・小説家:明治22年~昭和37年)の「ふるさとは遠きにありて思ふもの」(小景異情:大正2年)のように、多くの人々が郷里を離れ、都市部に出て働くようになった当時の社会的な背景とも関係している。
まずは都市部への大規模な人口移動をみてみよう。江戸時代は藩政が敷かれ、日本全国の人口分布は比較的均一であったとされている。それが、総務省(住民基本台帳人口移動報告年報平成15年)によれば、日本の総人口に占める三大都市圏(註:東京圏(埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県)、名古屋圏(岐阜県、愛知県、三重県)及び大阪圏(京都府、大阪府、兵庫県、奈良県)をいう)の割合は、1950年(昭和25年)の34.0%から1970年(昭和45年)には46.1%まで急速に上昇し、都市部に人口が集中しているのが分かる。
高度経済成長期の集団就職(註:地方の中学校新卒者が出身学校や地域ごとに大都市の工場や商店に大勢就職した労働力移動)も大都市への人口移動を後押しした。まだ成人していない子どもたちは、故郷の親元を離れて暮らす中で、故郷への思い、おふくろの味への思いを募らせていったことであろう。
都市部に人口が集中するに従い、都市部には各地域の郷土料理を提供する定食屋、居酒屋が繁盛するようになった。当時の郷土料理の食堂が賑わいをみせたは、人々が毎日の空腹を満たすだけではなく、幼少期に慣れ親しんだ家庭料理の味を楽しみ、都市での孤独を慰めるためでもあったたようである。3)
東邦大学が位置する東京の南部、大森、蒲田はかつて東京湾の漁場、そして海苔の産地として知られていた。東京湾は“江戸前”(註:狭義には隅田川河口部の佃を中心とした漁場、広義には東京湾を指す)と呼ばれ、新鮮な魚や貝がよく取れていた。しかし、高度経済成長期に京浜工業地帯が形成されると同時に、海苔場や漁場はつぶれ、それらは工場へと転換していった。
「ただ単に土地利用が変化したのではなく、この地域を舞台とした暮らしと季節の移ろい、土地の恩恵と制約とともに生きる人々の姿が消えていく過程でもあったのだと実感される。」3)
このように都市部においても「故郷」的な場所がより急速に失われる事態となっていった。
一方、望郷の対象であった地域の農村漁村でも、高度経済成長期には、農村漁村部にも電気、ガス、テレビ、冷蔵庫などが導入され、生活様式が都市化していった。また、都市部以上に、「生活改善運動」(註:第二次世界大戦で荒廃した農村の再建と生活水準の向上を図った農林省が1948年に施行した農業改良助長法のうちの生活改善普及事業に端を発している。)が積極的かつ組織的に行われていった。3)この「生活改善運動」には、西洋の栄養学の知識を背景とした食生活の改善が含まれており、「油脂、動物性たんぱく質を積極的に摂ること、漬物による塩分の過剰摂取に気をつける、カレーライスやシチューなど、新メニューを取り入れるなどの知識が普及していった。」3)この運動によって、郷土料理自体が変化していくこととなる。
このように都市部、農村部ともに、昔ながらの生活、「故郷」的な場所が急速に失われていく中で、人々が故郷を懐かしむ思いは水面下でより強くなっていった。この人々の思いは、時代を通じて、家族、家庭のおふくろの味へとつながっていくのである。
故郷の再発見
「都市化や産業化による人口の移動や地域の変化が生じると、「故郷」的な場所が求められ、再発見するという展開が、おふくろの味の誕生経緯と類似している(中略)」3)
他に「故郷」的な場所の再発見する例として、湯澤は大正末期から始まる「民藝運動」(註:手仕事によって生み出された日常づかいの雑器に美を見出そうとする運動)、昭和初期(1930年代)の郷土教育運動、第二次世界大戦前の郷土食研究などを挙げている。食にとっての「故郷」とは、どのようなものであろうか。
高度経済成長期には地域の農村漁村でも、味噌の自家醸造に変化が生じ、栄養学に基づいて製造方法、塩、麹の分量の変化、カルシウム、ビタミンの添加が行われるようになった。3)
また、食品工業も発達し、人々はインスタント食品などの既製品を購入して食べたり、外食したりする時代となっていった。現代の栄養学の知見を活かして食生活が考えられるようになった一方で、伝統的な本来の味は変化し、既製品の登場によって郷土料理という地域差は失われていった。
しかし、いつの時代においても、ある動きに対して、それとは反対の動きが生じるのが常である。まるで、東洋哲学の陰陽のように、である。
「故郷」的な場所が失われつつあった流れの中で、1980年代になって、ようやく「ふるさとの味」を再評価、再編しようとする動きが出てきた。
市川健夫(註:昭和2年~平成28年:地理学者。日本をはじめとする各地の風土と文化の関連性の研究者)は、1981年、「ふるさとの味」を「食の文化財」として、その維持と保護を提唱した。「市川の主張は「地域」という場所に根差した「味」が失われていくことに警鐘を鳴らしたものだと位置づけることができる。」3)
長野県の例でみれば行政、農協だけでなく、地域のグループが草の根で動いて、地域の価値を再評価していた。結果的に地場産業が活性化していった。
時代の流れから、伝統はやはり変わらざるをえないのかもしれない。しかし、産業によって味が標準化されすぎるのも、非常に味気ないものである。その反動として、人々の「故郷」的な場所を求めようという思いを代弁した運動によって、郷土色の再評価が行われていった。そして、時代にふさわしいかたちで、「おふくろの味」、「家庭料理」のイメージが形成されていった。
「家庭料理」を推し進めたメディア
高度経済成長期の核家族における食の主体は「家庭」、特に母に求められた。その料理内容を技術的に支援してきたものとして、学校教育や情報社会での料理が挙げられている。3)
「(註:家庭料理が近代化された「家庭」に求められるようになって)それまで主要であった炊飯や煮物に加えて、西洋風にアレンジされた料理や、肉類やじゃがいもなど西洋料理に多用される和風料理に応用したものなど、新しい料理と料理技術が家庭内に入っていく(中略)」3)
それでは、おふくろの味に挙げられる肉じゃがは、本当に「家庭料理」なのであろうか。肉じゃがの誕生と変遷をみてみよう。
「膨大な料理記事のデータベースの中で、「肉じゃが」の初出を探すと、最も古い記載は1950年刊行の婦人雑誌『主婦と生活』一月号であった。しかしこれは家庭でつくるレシピではなく、食料配給制度下での外食券食堂のメニューとしての登場であった。」3)
「(註:肉じゃがが)レシピとして確認できるのは、1964年のNHK『きょうの料理』のテキストが最初である。婦人雑誌を通じて紹介されるのは、さらにその10年後で、この間、料理本で「肉じゃが」という料理名は使われていない。一般的に使われるようになったのは、今から約50年前の1975年頃というから、実は「肉じゃが」の歴史をそれほど古いわけではないことがわかる。もとは家庭の料理というよりも、居酒屋の一品として始まった料理であったらしい。」3)
「ところが、1980年代になると、肉じゃがは急に「おふくろの味」、「懐かしい家庭の惣菜」などと紹介され始め、多くの日本人がこの料理名を「家庭」と結び付けて認識するようにになった。」3)
「このような「肉じゃが」のイメージに懐かしさや家庭的という物語を介在させて、「おふくろの味」という世界観や価値観を推し進めたのは、女性向けの本やテレビ番組などのメディアであった。主婦向け雑誌は「だんなさまの好きないなか料理」と紹介し、20代前半の女性向けの雑誌は「結婚できると評判になった」料理教室の紹介ととも、「和食の基本」というカテゴリーの中で、「男性から高い人気を誇る肉じゃが」は「家庭的な献立」になると説明している。」3)
現在、肉じゃがが、おふくろの味とされるのは、母の手作りの家庭料理として、メディアが喧伝したこととによる。長い食の歴史の中では、おふくろの味、家庭料理という呼称は、意図的に形成された歴史、幻想といえるかもしれない。しかし、その時代を生きた人々にとっては、本当におふくろの味であり、今でもそのようにあり続けている。
結語
このように歴史を振り返ってみると、おふくろの味とは、高度経済成長期につくられた神話だと考えられる。日本の産業構造が農業から工業へと大きくシフトしていく中、家族構成も大家族から核家族へ、さらに地域から大都市への大規模な人口移動といった変化の中、人々はかつての拠り所として、自然と“故郷”を求めるようになっていた。それに応じて、「ふるさとの味」を再評価、再編しようとする動きが出てきた。その機運をとらえたメディアは、家庭料理とその団らんを新しい“故郷”として、そして料理の担い手を母へと一層推し進め、おふくろの味を形成していった。
おふくろの味とはある世代の郷愁を伴った幻想なのかもしれない。とはいえ、一時代を形づくり、懐かしむ記憶となっているのは確かである。変化の多い時代における拠り所ともいえるだろう。手間暇かけてくれた母への感謝の思いを込めて。
「おふくろの味とは、豪奢でも珍味でもなく何気なく食べさせられたとるに足らないものが、ある日それが大きなささえになっている不思議さ」6)
Abstact
Looking back on history in this way, “mother's taste” may be a myth that was created during the period of high economic growth in Japan. In the midst of a major shift in industry from agriculture to industry, people naturally began to seek a "hometown" as they moved from large families to nuclear families and from regions to big cities. There is a movement to re-evaluate and reorganize “hometown taste”. It could be said that the media that seized this momentum further promoted home-cooked meals and family gatherings to a new “hometown,” and to mothers as the bearers of cooking.
My mother's taste may be an illusion accompanied by the nostalgia of a certain generation. Nonetheless, it is certain that it has shaped an era and has become a nostalgic memory. It can be said that it is a stronghold in an era of many changes.
参考文献
- 清川妙:つらい時、いつも古典に救われた,筑摩書房,2012
- フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』,https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%81%B5%E3%81%8F%E3%82%8D%E3%81%AE%E5%91%B3
- 湯澤規子:「おふくろの味」幻想 誰が郷愁の味をつくったのか,光文社,2023
- 春木育美:近代日本と朝鮮の良妻賢母主義 / 著日韓歴史共同研究報告書 第2期 第3分科会篇,日韓歴史共同研究委員会 編,日韓歴史共同研究委員会,2010
- 江原絢子:家庭料理の近代,吉川弘文館,2012
- 阿部なを:小鉢の心意気,筑摩書房,2007
投稿者:田中耕一郎
カテゴリー:漢方薬と身近な食材