日本の土壌と文化へのルーツ67 談山神社と大宇陀
2025年02月07日東洋医学研究室
田中耕一郎
緒言 少なくなった秘境
最近は、旅行とはいっても何もかも予定通りである。あらかじめ調べた通りにことは進み、写真で見たみたいと思っていた場所に辿り着き、自分がその風景に入って写真を撮ることで満足する。以前の旅といわれるもののように、全く知らなかったものを発見したり、トラブルで途方にくれたり、思いがけない人に出会って助けられたり、ということが少なくなっているように思える。私の場合は、旅には出来るだけ、予定を入れず、気ままにめぐるようにしている。
奈良県の宇陀市に仕事の予定が入り、前日の宿を探すことになった。宇陀市は漢方生薬に由緒がある土地であり、以前は大宇陀町として知られていた。昼前には余裕をもって大宇陀に着けるようにと、周囲の情報を辿っていく中で、ふと出会った、思いがけない場所が、桜井市の談山神社の隣にあった。作家の司馬遼太郎氏や、政治家の中曽根康弘元首相、土井たか子氏など、著名人も宿泊したことがあるようだ。また、市街地から離れた丘陵地帯にあって緑に囲まれているところ、談山神社と一体となっているところに魅かれて、そこに泊まることにした。「そのあたりは奈良盆地のなかでも孤立していて、わざわざゆく以外、ついでの用事ができるような場所ではない。」1)まさに行くべき場所だ。

奈良の気風
世界各国から観光客が押し寄せるようになった京都とは異なり、奈良は観光地でありながらも、古都としての落ち着きを保ち続けている。
この辺りは、奈良県の気風も関係しているかもしれない。司馬遼太郎氏は、以下のように述べている。
「(この県の習慣として(戦前までのことだが)真夏に客がくれば、枕を出す。籘(とう)畳の上で、たがいに寝ころんで話しあうのだが、これなども低血圧者が県下にいかに多いかという証拠ともいえる、と前川さん(註:前川佐美雄、奈良県の歌人)はいった。前川さんの歌風も、高血圧タイプの人のものではない。」1)
「奈良県といえば、明治型の立身出世におよそ適(む)かない県だった。たとえば明治以来、敗戦までの社会は"大臣・大将”になることが、栄達の規準とされていたし、どの県もそのような栄達例をたくさんもっていた。たとえば山口県や鹿児島県にいたっては大臣・大将は掃いてすてるほどいた。
この点、奈良県は敗戦まで一人も大臣を出さず、大将のほうも縁がなかった。敗戦の直前に、大和五条の出身の陸軍少尉がひとり出たというみごとな件なのである。
奈良県は、よくいえば駘蕩(たいとう)している。」1)奈良が古都としての落ち着きを保っているのは、県民のこのような気風が関係あるのかもしれない。現代にあって非常に貴重である。
多武(とうの)峯(みね)
最寄りの桜井駅近くから談山神社のある多武峯までの古道は、多武(とうの)峯(みね)街道と呼ばれている。この街道は、松尾芭蕉や本居宣長など、いろんな文化人が歩いた道としても知られている。現在では周囲の道路も整備されていて、バスも通っている。
本居宣長(1970-1801年)は、隣県の三重の松阪の医師であり、国学者であった。ただ、江戸時代の本居宣長が生まれた当時には『古事記』を読めるものはすでに存在しなかった。その中にあって、『古事記』の解読に成功し、約35年かけて『古事記伝』を著した。その国に、優れた著作が生まれることは、その言語がもつ表現を拡張するものである。本居宣長が再評価した『源氏物語』など母国語から文学作品が生まれることは、その言語の表現の豊かさ、それを運用する人々の感情、思考に影響し、それらを深化させる。松尾芭蕉も、俳句という表現を用いて、日本語表現の独特の境地を築いた人物である。
ともかく、多武峰とは奇妙な名前である。司馬遼太郎氏も同じような思いをもったのか、以下のように述べている。
「その名さえ奇妙だが、この山の名はすでに『日本書紀』の斉明紀二(656)年の記述にあらわれている。このあたり、奈良県の“有史”の古さに感じ入らされる。文字のないむかし、土地の者が、この山を、「たむ」という音でよんでいたのであろう。『日本書紀』は、その音に、田(た)身(みの)峰(みね)という漢字をあてた。『万葉集』ではちがう。巻九には多武(たむ)などとも当てられた。」1)
「たむ」という和音に漢字をあてたことからも、この地域の歴史の長さを感じさせる。
今回の旅は、松尾芭蕉、本居宣長が歩いた古道ではなく、文明の利器の車の力を借りて目的地に向かうこととなった。登ること20分程度で、さっきまでの喧騒はどこにいったのか、全くの別世界が広がっている。多武峰では、談山神社一帯が森林に囲まれており、周囲から隔絶された特別な空間を形成している。夜は市街地の明かりもなく、森の中は静寂につつまれる。今では少なくなった秘境に来たようである。作家の司馬遼太郎氏が訪れた時にもこの場で、執筆につながる多くのインスピレーションが得られたことであろう。
談山神社由来
その土地の地形は独特で、神聖な雰囲気を漂わせている。談山神社の由来を経時的におってみよう。まず、談山とは、談(かた)らい山という名に由来し、中大兄皇子と藤原鎌足が蘇我氏討伐をこの場所で話し合い、大化の改新へとつながった故事に基づく。しかし、この聖地が談山神社という名になるのは、長い歴史の中で比較的最近の事である。
「斉明紀二(註:『日本書紀』 656年)の記述には、妖しさがただよう。この田身峰(多武峰)に、冠のように垣(石垣か、木の垣か不明)をめぐらした、というのである。山城は山の中腹に鉢巻を巻いたように生垣をめぐらせるものであったが、よくわからない。さらに、当時、この山上に槻(つき)(註:ケヤキの古名。神社仏閣の建築にも用いられた。)の木が二本はえていた。おそらく神木だったのだろう。斉明女帝はその槻のほとりに「観」を建てた、という。観とは、中国では、上代でもいまでも道教寺院を指す。道教の観を建てたのか、とおどろかされるのだが、しかしこの簡単すぎる記述からは判定しがたい。」1)
地形としては、奈良盆地のなかでも孤立の中でも孤立した場所であった。そこが何の目的なのか垣がめぐらされ、また道教寺院を設立されたという。
「要するに、「たむ」という山は斉明紀以前から、土地では神異を感じさせる山だったのであろう。それがやがて藤原氏の祖の鎌足(614-669)が葬られ、その廟所になった。」1)
古道から歩いて登っていくと、より神異を感じさせられたことであろう。
「記憶のなかでは、暗い杉木立の道をのぼっていくと、大和絵に出てくるようなまるい頂きがあり、山の色は群青色になっている。中腹の樹林に天から舞い降りたような建物があって、樹間にみえる赤がうつくしかった。」1)
今回の旅では、到着時には夜も更けており、神社の様子は良く見えなかったのが残念である。
「なまみの人間を神社の祭神にする例は、当時の神道思想には乏しかった。である以上、神道・仏教以外の「観」の形式がいいのではないかと思われたのにちがいない。さいわい、多武峰には鎌足の生前「観」ができていた。
ただ、上代日本は、中国の土俗信仰である道教を、思想の破片としては自然に入れはしたが、体系的には受容しなかった。このため、多武峰には「観」の建物のような高殿はあったにせよ、道教僧である道士は存在しなかったと想像する。
—多武峰は、観か、神社か、寺か。というあいまいさは、千数百年続く。」1)
この聖地の曖昧さは以下のように説明されている。
「多武峰の祭神が「談武権現」という名になるのは、ようやく平安期になってからで、九二六年である。権現とは「仏が権(かり)(仮)に日本の神として現れる」という意味で、十世紀の日本に成立した神仏習合のいわば結晶というべき思想だった。」1)
「このため、多武峰は天台宗(叡山)の末として、仏僧によって護持された。多武峰の僧のことを、とくに、「社僧」とよぶことが多い。ただし、いまは存在しない。明治の太政官政権の勇み足の最大のものは、廃仏毀釈だった。慶応四(一八六六)年旧暦三月一七日、全国の「社僧」に対し、復飾(髪をのばし、俗体に還ること)を命じた。」1)
「多武峰の社僧たちも、明治二(一八九六)年、還俗させられた。「神仏判然令」によって同七年、仏教色を除かれ、談山神社という殺風景な名になった。」1)
談山神社とはこの曖昧さをもつ聖地が、最近になって有するようになった名なのである。
今では、非常に落ち着いた雰囲気であるが、建築物の中には、当時の華麗な時代を想像することができる。
多武峯の夜
「(註:談山神社の)石段の下、道路をへだててコンクリート造りのホテルがある。これは、昔はなかった。」1)
ちょうど蹴鞠祭りや紅葉などの繁忙期を避けて宿泊したため、ホテル内も落ち着いていて、非常に暖かいおもてなしを受けた。このような思いがけない出会いも、昨今少なくなったように思う。私は一介の客に過ぎないのだが、例え1泊であっても忘れられない思い出になることもある。人の一生の一瞬であったとしても、本当に有難いことである。
大浴場で汗を流した後、大和名物料理百選の第一位に輝いたという義経鍋を頂く。このホテルの義経鍋の起源は、文治元年(年)、義経が頼朝に追われ、静御前との逃避行で吉野山に潜んだことに由来する。静御前は義経と別れた後、吉野で役人に捕らえられる。その後、義経をかくまった僧たちは、疲弊しきった義経と弁慶ら主従含めた8人の体調を取り戻すために思案の末、特別な料理を生み出した。それが義経鍋である。
義経鍋の説明書きを読んでみよう。
「吉野を追われて追はれてより大峰、大台ケ原の小さな社や優婆賽の坊舎を流転するも猛吹雪や冬の事物は下界の想像を絶し冬中は人も居ず食糧にも窮し至難のすえ鞍馬の学問所に居た頃の藤堂の十字坊を頼り大晦日に近い頃南院藤堂に草鞋をといて寺房深く身を潜めて十字房に匿まわる
追捕を受け流転の身、寒さと飢えに弱る主従九人の身を案じ、十字坊が藤堂の八弟子文妙、文実、楽達、楽園、道徳、捨悟、行徳、捨禅に命じ強精栄養食として食用方を案出されたのが義経鍋のそもそもの起源である その美味強精はいわんかたなく多武ノ峰を去った後もつねに若々しくその迅速なる行動、精神、強い体力の保ちえる源泉をなしたと伝承される。義経鍋の古称はすなわちここに発し幾多の変遷を経て近年これが復活の機縁を得たものである」2)
マタギの方々が周囲の山々で捕らえた猪などの獣や、鴨、鶏などを鉄板焼きとする。一方で鍋に各種野菜、豆腐、春雨を入れて、ポン酢で味わう。銀杏、山芋、椎茸は焼いても鍋に入れても良いようである。義経の頃に思いを馳せながら静かに味わう。あのような過酷な現実に直面して義経一行はどのような思いであったのであろうか。追われながら、束の間でも、心休まる瞬間はあったのであろうか。
この時の好意は、義経一行には、おそらく身に沁みたことであろう。この料理で英気を養い、時機を待つために、次の行動へと移っていった。義経らの覚悟に比べれば、自分の試練など全くちっぽけなものに見えてしまう。
鍋の漢方処方:当帰生姜羊肉湯
義経鍋を食べながら思い出すのが、当帰生姜羊肉湯という漢方処方である。『金匱(きんき)要略(ようりゃく)』という2000年ほど前の内科、婦人科学などを含んだ医学書の中に記載がある。生薬構成は当帰60g、生姜120g、羊肉250gであり、これらを水に入れて、弱火で煮詰めて食すると説明書きがある。産後などに冷え、腹痛をきたしたご婦人に処方する。実際は薬というよりは、鍋料理に近く、ある中国の名医に診てもらったご婦人が、「食べ物のレシピではなく、薬が欲しい。」と訴えた過去の逸話も残っている。もちろん、名医に諭されて半信半疑で当帰生姜羊肉湯を食した女性は、薬効の確かなことに驚き、医師の見識に感服したそうである。東洋医学では、医食同源という言葉もあり、薬物と食物の距離感は近い。この当帰生姜羊肉湯は、実際には生姜を120gほど入れていなくても、食すると身体が熱をもってのぼせて眠れないほどになる。冷えている人ではないと不向きな処方である。
当帰は、奈良県の大和地方の産地であり、明日に訪問予定の大宇陀では、特に当帰の栽培に力が入れられており、道の駅では当帰の苗を購入することができる。
早朝の談山神社
朝は8時の開門を待つ。
子供の頃、遠足で多武峯に登った司馬遼太郎は、「なにしろ、戦前の大阪の小学生が、四、五年生のときにゆく遠足コースなのである。」1)と、その当時の記憶を思い出しながら、談山神社の石段を登っている。
「石段の両側は、夏の楓だった。そのあおあおとして華やぎを通して、檜皮葺の屋根に、春日造ちりの朱塗の社殿の一部を見たとき、記憶のなかの多武峯とさほど違わないことに安堵した。」1)
談山神社の本殿には藤原鎌足が祭られている。本殿を装飾る豪華な様式(三間社隅木入春日造)や極採色模様、龍花鳥などの彫刻は、後に日光東照宮造営の際に手本となったといわれている。
「鎌足を祀る多武峰の創始は、七世紀後半である。唐に留学していた鎌足の子の僧定慧(じょうえ)が、木造の十三重の塔を造営した。今存在してている塔は一五三二年の再建だが、朱塗・檜皮付葺の色調といい、十三重のつりあいのうつくしさといい、破調がほしくなるほどの典雅さである。」1)
「本殿についても、同様のことがいえる。藤原氏は華麗を好み、その氏神をまつる奈良の春日大社の社殿(春日造り)も、桃色に息づく少女のようなはなやぎをもっている。この多武峰は、春日造り(註:奈良時代中期に成立したと考えられている神社の本殿形式のひとつ)である以上に、桃山様式(註:装飾に金や漆を多用した豪華絢爛で緻密な様式)が加わっていっそう華麗になった。」1)
落ち着いた森の中に、華麗な神社が格調高く収まっている感じである。
大宇陀 史跡森野旧薬園
談山神社に後ろ髪惹かれながらも、さて、最終目的地の大宇陀に向かう。多武峰は、もともとは奈良盆地では孤立した場所に位置するが、現在では、大宇陀にまでトンネルが完成しており、直線距離では車で15分程度と非常に近い。大宇陀は、観光地としては、世間ではあまり知られていないが、生薬の専門家であれば、何度でも訪れたい場所である。
「古代には「阿騎野」と呼ばれ、宮廷の薬猟の地とされたところです。『日本書紀』には推古19年(511)5月5日に薬猟(くすりがり)が行われたことが記録されています。時代は下り江戸時代中期、享保14年(1729)、森野賽郭翁により薬園が開かれ、250年以上の時を経た現在も「史跡森野旧薬園」として継承されています。」3)
『日本書記』」によれば、「宇陀は古来不老不死の妙薬と信じられていた水銀の産出地として知られていました。その神秘性が神仙思想と結びつき、宇陀で採れる薬草や獣を食べることで聖なる力を持つと考えられてきたことから、宇陀は王権の猟場となっていました。」3)
また、大宇陀は、生薬の採取地という面以外に、宇陀松山地区という旧城下町があり、薬種問屋で栄えた場所である。

宇陀松山地区 重要伝統的建造物群保存地区
「戦国期に在地領主であった秋山氏の居城と城下集落として誕生し、織豊期から江戸期初頭にかけて、豊臣家配下の大名によって大規模に整備されました。宇陀松山城破却後も、織田家松山藩の治世を経て、幕府領へと移り変わっていく中で、商家町として繁栄し、その活況ぶりは「松山千軒」「宇陀千軒」と称されたと伝わります。」
「また、薬のまちとしての側面もあり、江戸時代後期には地区内に50軒を越える薬種問屋がありました。」
「江戸期から続く伝統的な建造物群が全体として意匠的に優秀であることから、平成18年に重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。」
藤沢製薬や津村順天堂などは、この大宇陀を発祥地として、全国展開していった代表である。
当帰づくし
宇陀松山地区では、当帰生姜羊肉湯ではないが、当帰生姜豚肉湯のような鍋を食する。『金匱要略』に記載されているほどの当帰、生姜の量ではないが、十分に心身は温まりすぎて、ほてりがとれず、寝付けないほどである。。冬に行けば、その価値が一層みに沁みるであろう。ここでは、当帰鍋はご当地の食事として売り出し中である。他に当帰づくし定食というのもある。漢方生薬好きにはたまらない料理である。
当帰は産婦人科疾患にはなくてはならないものであり、月経の調整、不妊、更年期など女性の様々なステージで役に立つ。
当帰の学名はセリ科のAngelica acutilobaであり、セリの香りがする。ただそれよりも甘く、香りが強いのが特徴である。薬効も期待しつつ、一度お召し上がりになることをお勧めする。きっとまた食べたくなる思い出の味になるに違いない。

結語
今回は、多武峰にまつわる逸話から談山神社の由来を紹介し、続いて生薬の当帰の産地である大宇陀の街並み、薬種問屋の歴史と当帰について概説した。義経鍋を食べながら、当時の義経に思いを馳せ、大宇陀では当帰鍋、当帰づくし定食を味わった。日頃、渇きがちな心を十分に潤し、明日への鋭気を養う旅となった。奈良という古都の良さを今なお保ち続けている。このような場所が今後も残ることを願ってやまない。
Abstact
Japanese Traditional Herbal Medicines (Kampo) and Everyday Plants: Roots in Japanese Soil and Culture. vol.67;
Koichiro Tanaka, Toho University School of Medicine, department of Traditional Medicine
This time, I introduced the origin of Tanzan Shrine from an anecdote related to Toumine, followed by an overview of the townscape of Ouda, which is the famous production area of herbal medicine, Toki (Angelica acutiloba), the history of medicinal wholesalers and Toki. While eating “Yoshitsune hotpot”, I thought about Minamoto Yoshitsune at that time, and at Ouda, I tasted Toki nabe and Toki set meals. It was a journey that satisfactorily quenched my often-thirsty heart and nourished my energy for tomorrow. It continues to preserve the charm of the ancient capital of Nara. I hope that places like this will continue to exist.
参考文献
- 司馬遼太郎:街道をゆく24 近江散歩奈良散歩,朝日新聞出版,2023
- 名物 義経鍋の話,元南院藤堂の十字坊 多武峰観光ホテル資料
- 宇陀市歴史文化館「薬の館」資料
- 米田該典:漢方のくすりの事典 生薬・ハーブ・民間薬,医歯薬出版,1994
投稿者:田中耕一郎
カテゴリー:漢方薬と身近な食材