日本の土壌と文化へのルーツ69 東洋医学 今は昔

東邦大学医学部
東洋医学研究室
田中耕一郎
 

緒言

 現在、日本では全医師30万人の80%近くが漢方を処方しているという。私が東洋医学を志した頃を思うと隔世の感がある。20年程前になるが、医局をやめて東洋医学がやりたいと教授に相談したときには、かなりショックを受けられたご様子と、私の将来を心配してご助言を頂いた。教授の同期には、東洋医学の世界で著名な方もおられ、「何かあったら教えてくれ。力になる。」とさえお話があったのを覚えている。無鉄砲で、非常に変わり者の自分に、このように暖かい過分なるお言葉を下さった教授に今でも感謝している。もし、自分が逆の立場であったら、このような言葉をかけられたかどうか、今の自分にも全く自信がない。
「東洋医学を志すとは、医者を辞めること」とほぼ同じ意味で捉える医師も多く、このことは少なからず、長く東洋医学を行っている医師の心情に影響していると思われる。東洋医学の科学的検証を進めるのは、現代医学において一定の信頼を得るには必要なことであるが、その背景には一種のコンプレックスからくる「認められたい」という感情が強くそれを推し進めているように思われる。
 普及の一方で、東洋医学の専門医、指導医に当たる人材は全体の1%にも満たないどころか、さらに減少傾向にあり、従来の体系的な教育が困難になりつつある。さらに東洋医学を生業として志す医師が漸減していっている。特に20代、30代の医師の減少は顕著であり、次世代を担う医師が極端に不足している。漢方専門医は絶滅危惧種という論考も散見するようになった。このギャップはどこから生まれるのか。
 この背景にある一つの仮説は、東洋医学に限らず、医学全般、また、多くの専門分野において起こっている変化である。今回は、東洋医学におけるドラマをご覧いただきながら、医学全体に共通する傾向について触れてみたい。

東洋医学という生業

 私は、もともと大学の文系を卒業後、一般の企業の営業部門に就職し、担当地域の北海道東部を車で転々としながら、日々を過ごしていた。50歳頃の自分を想像しながら、悔いのない道をと、第二の職業として選んだのが東洋医学であった。当時、熱心な先輩の勧め(おそらく自分の無鉄砲な決断を耳にして、将来を案じて頂いたのではないかと思う)で、まず医学部に入ること、現代医学を学ぶことを決めた。ただ、周囲の反対を押し切って退職した後は、世間の荒波にもまれることとなった。例えば、家を借りることさえ無職であれば非常に厳しい。当時は、友人を伝って公認会計士をされている方に、自分の事情をお話すると、黙って一室を貸して下さった。非常に有難い思い出である。
 道そのものも平坦ではなかった。神がかったように昼夜問わず受験勉強に打ち込む中、私の身体は自分でも気づかないうちに大きな無理がかかっていたようである。次第に痩せてやつれ切っていく自分を見て、周囲の友人の間では、「田中が先に死ぬか、それとも奇跡的に合格するか」のような声も聞こえてきた。それでも何とか持ちこたえて、受験当日を迎えることができた。受験会場に向けて出発の前夜には、友人夫妻が酒持参で、自宅まで訪ねてくれた。ご夫妻と「最後の晩餐」をして、“切腹の儀式”もやったのも覚えている。無鉄砲ながら、自分なりの覚悟はあったのだろう。
 家計的は、会社勤め時代のわずかな貯蓄と、家庭教師(無謀にも医学部を目指す学生を複数教えていた)と新聞配達で何とか支えていた。とはいえ、次第に金銭も尽きようとする中、天上の神も流石に不憫に思って下さったのかもしれない。
 結果として、幸運にも、憧れの“薬の富山”の地に足を踏み入れることが出来た。入学後は、優秀な同級生に助けてもらいながら無事卒業した。卒後は内科に籍を置いて学びながら、一方で本格的に東洋医学を学ぶ機会を探していた。自分自身でも、書物を紐解きつつ、漢方薬を出すのが、自己流の域を出ず、自信が持てなかった。
 何とか現状を打開したいという気持ちで手紙を3通したためた。いずれの宛先も、東洋医学の方面では非常に著明な先生方で、一度お会いした際に頂いた名刺が頼りであった。手紙には、自分の現状と将来の目標に加え、「本格的に東洋医学を勉強するにはどこで学べばよいか」という、これもまた率直すぎる問いをしたためた。お忙しい先生方には大変厄介な手紙であったに違いない。ただ、熱意は通じたのかもしれない。一週間も立たないうちに2通返信が来た。いずれも、「東邦大学に東洋医学科が開設された。教授は三浦於莵先生といって、中国で東洋医学を研鑽の後、帰国されている。彼に学ぶと良いでしょう。」と書かれていた。(一度三浦於菟先生の外来は見学したことがあり、面識はあった。)すぐさま、三浦先生宛てに手紙を書き、かつ返事が待ちきれず、東邦大学にまで土曜の外来に合わせて会いにいった。時宜を得たのかもしれない。その時は、東洋医学科開設直後で、ちょうど医局員を募集していたのであった。「田中君、どうする?」と尋ねられ、その場ですぐさま入局を決めた。
 最後の3通目は、数週間おいて返信があった。そこには、「もう少し現代医学をやって学位取得後からが良いでしょう。まだ早いように思います。」と書かれていた。もし、3通同時に届いていたら、決断が鈍っていた可能性が高い。このタイミングのずれは、運命のいたずらであったのかもしれない。
 今までの歩みを振り返ってみると、偶然とは思えない導きがあったように感じる。

東洋医学における師弟関係の意味

 現代医学もおいてもどの教授に師事するか、は非常に大きな問題である。ただ、東洋医学においては、師匠によってその知識の奥行が決まってしまい、その後の臨床の深みに影響してしまうほどに重要である。そもそも、東洋医学は一定の教科書が存在し、体系はあるように思われるが、その理解の程度は師匠によって異なり、実臨床の運用面では、非常に曖昧な部分を多く残している。師匠に求められるのは、東洋医学の体系全体を俯瞰できるか、東洋医学の知識はもちろん、その運用に長けているか、患者をみる“臨床の眼”を有しているか、が大切である。三浦先生は、この3点において非常な実力者であった。自分と性格は異なる部分は多かったが、文学的センスは非常に共通点があり、長く関係を続ける上で、自分に非常に大きな影響を与えた。今思えば、実は最も大切な共通点であったかもしれない
 師匠について学ぶという気風は、当時の東洋医学の世界ではかなり残っていた。三浦先生の元には、私以外にも優秀な同期が二人いた。毎日、外来診療の陪席はもちろんのこと、食事もよく共にしていたが、この食事の時間さえも非常に大切な質問時間であった。学んで腑に落ちたい、ものにしたいという熱意が、自分にも周囲にも強く、時間を惜しんで切磋琢磨し合っていた。また、知識だけでなく、師匠の人となりにも触れ、そこから学ぶという極めて人間的な学びがそこにはあった。
 しかし、この熱気は今の東洋医学の世界ではすでに失われてしまったように思う。教育体系が一律化する事で、体裁は整うかもしれないが、学び合うものの同士の“化学変化”は起きにくくなる。それは、知識の導入も行先もある程度見通せ、内容も誰もが理解可能な形で簡略化されてしまうからである。また、不特定多数の医師を相手にする場合、各人の動機付けは多様であり、学ぶ側もどうしても受け身の姿勢が多くなる。そのような環境では、教える側は、万人が分かるように内容を簡略化したり、評価を気にして聴衆に媚びたりする必要がでてきてしまう。私が身を置いていた環境は、三浦先生から習いたいという強い動機をもった者ばかりが集まっていたため、師匠の方も自分をそのままぶつければ、皆に自然と響いたのである。その場で理解できなければ、自分から周囲に聞き尋ね、かつ自分で書物を紐解いて、その鍵となるものをつかむ努力をしていた。この学びの時間が純粋に楽しかったと今尚、強く感じている。深い学びは、学ぶものの熱意、それに自分をぶつける師匠があってこそ生じる化学変化なのである。

専門分野を支える人たち

 現在の東洋医学会の会員数は7600人程度であるが、医師全体の30万人からみれば3%に及ばない。専門医となると約2000人で0.7%とさらに少ない。指導医となると0.1%を切ってしまうかもしれない。武道に例えれば、専門医は師範のような存在である。武道における師範の免許は一般的に「一通り型を伝授した」という意味だそうで、全体の体系を俯瞰出来て、自分なりの理解に至っているとなるとさらに数は少なく、身体で体現できるとなると、手で数えるほどしかいないという。この領域に至った方々は、世間の表舞台に出てくることもほぼなくなり、少人数の間で研鑽する場合が多いようだ。技術は深まれば深まるほど、精度が上がり、万人には容易に伝わらず、理解されにくくなる。何故ならば、この種の技は、各人の熟達度に応じてしか修得しえない世界であるからである。例え、師範が教えたいと思っても教えられない。学ぶものがその器を持っているか、その域に達しているかが問題となってくる。
 武道の世界において、少数精鋭の専門家の中でかろうじて継承される技もあるが、結果として伝承されず、消失してしまった例も数多くあるようだ。一旦廃れてしまった技は、ある種の天才の誕生するまで再現されることは難しい。このような領域の技は、当然大学では教えてもらえるものではない。しかるべき人に直接会いに行くしかない。会えたとしても自分がそれを会得できるという保証もない。ただ、ひたすら学び続け、自分を磨き続けるしかない非常に厳しい世界である。しかし、このような学びにこそ本当の魅力がある。「東洋医学を志すとは、医者を辞めること」などと、周囲に思われようが、また何を言われようが、私は全く意にかけず、その世界に飛び込んでいった。自分の奥底から出てきた動機に従うことこそ、人生を賭ける意味を感じられるのではないかと思う。
 「明日から使える」「すぐに使える」知識というものは、日々の臨床をこなすには実用的だが、すたれるのも早い。近未来に機械にとって代わられるのもそう難しいことではない。多くの医師の前で、自分の専門分野の講演をする場合には、この種の内容は方便として仕方がない場面もある。しかし、私の場合、話しながら、自分の専門を貶めるような内容を、非常に残念に思うもう一人の自分が常に存在する。本当に深く理解することは、さほど容易なことではないからである。それぞれの専門分野の中核を支える人たちは同じような矜持をもっていると信じたい。
 巷でよく聞かれる「すぐにぺらぺらになる英語教育」もまた実際には存在しない。語学の修得はあらゆる専門の中で最も時間を要する分野である。語学の熟達者であれば、それぞれの話す「ペラペラ」に、まだまだ課題が残っていることを容易に見て取れるはずである。

各分野における専門家集団の解体

 しかしながら、あらゆる熟練専門家集団は解体されていく方向にあると歴史は教えている。比較的守られてきた医学の分野においても、将来は、この例外ではないかもしれない。産業革命当時、各職種はそれぞれ専門家集団を形成しており、数年にわたる教育体系を有していた。多様な研究会を開催して活発に議論し、幅広い知識・技術を互いに学び合い、その成果は、当初、科学技術の発展とも密接に関係していたとされている。1)それでは、その後、どのような過程を通じ熟練専門家集団は解体されていったのであろうか。アメリカの政治経済学者のハリー・ブレイヴァマン(Harry Braverman (1920–1976))は、「構想と実行の分離」を契機に専門家集団は解体へと向かうと分析した。ただ、この手法は、現代のビジネスモデルそのものであって、専門家集団の解体に直接つながるようには感じられないかもしれない。
 医学における構想は診断、実行は治療である。東洋医学に当てはめると、構想とは診察を通じ、種々の情報を考察し“証”を立てることであり、実行とはその“証”に基づいて、薬物や鍼灸などの治療法を選択することである。薬物であれば、患者一人一人に対して、生薬の組み合わせ、量などを調整し、治療することにあたる。この一連の流れが維持されていることは、東洋医学の専門家集団によって専門知識体系、それを用いた診療、治療行為が自律的に管理されている状態に相当する。1)
「構想と実行の分離」の前段階では、一連の過程を注意深く観察し、情報収集する必要がある。Bravermanによれば、「伝統的知識をすべて集め、この知識を分類し、集計し、規則、法則、公式にまとめる」ことが必要になる。東洋医学においては、医師向け講演会がその機会にあたる。そこでは、専門家が伝統的知識、経験を駆使した内容で行われる。今まで多くの東洋医学の専門家が熱弁をふるい、その面白さ、深遠さを語ったであろう。しかし、その内容の多くは、「構想と実行の分離」のためには必要がない。専門家がどのような情報を基に、診断へと至り、それに基づいてどのような治療を選択するのかの情報を通じて、構想と実行がどのように行われているかを淡々と収集することが肝要である。講演は言ってみれば、技術提供の機会であり、その後、多くの技術は簡略化されて利用されることとなる。
 次の段階が、Bravermanのいう最も重要な「構想と実行の分離」である。収集した診断から治療に至る過程の情報を出来るだけ簡略化して、詳細な診断(構想)、治療(実行)を簡素化、分離していく。最終段階として、最終的に課業(タスク)という概念に落としこむ。医学の分野では、マニュアル化、アルゴリズム化が挙げられる。Bravermanによれば、マニュアル化、アルゴリズム化ももともとは利潤を最大化するための企業側の管理の必要性から出てきた手法である。
 アルゴリズムを作成する例として、咳嗽であれば、急性なのか、慢性なのか、湿性か乾性か、喀痰の色などのあるなしで分類し、代表的な処方に辿り着けるようにする。さらに「病名漢方」という乾性咳嗽に麦門冬湯、手足のレイノー症状に当帰四逆加呉茱萸生姜湯といった一つの所見を直接処方に結び付ける一層簡略された方法が出現する。ここには、構想、実行が簡略化されすぎて、すでに診断、治療はもう見えてこない。医師免許も薬剤師免許も必要ないほどで、患者本人のセルフケアでも良いかもしれない。
 従来、漢方薬の処方は、各生薬の効能を理解した上で、それを組み合わせる。臨床現場では、個別の患者の体調に応じ、それらをカスタマイズしてきた。漢方薬の生薬構成は、ある種の型で出来上がっており、将棋や囲碁における定石と似ている。これらは熟練に最も時間を要する技の部分であり、診断(構想)と治療(実行)を結び付ける根幹である。
 そこで、この複雑な技の「構想と実行の分離」をするために、代表的処方をそのまま単一の製剤化し、覚えにくい名前に対してはそれぞれの処方に番号をふるということがなされる。葛根湯という処方名は覚えなくても、1番であることが分かっていれば処方できる。また、カスタマイズそのものが既製品では出来なくなる。
 この手法を固定化してしまえば、生薬構成を知らずとも、アルゴリズムに沿って、簡便に処方することが可能となる。患者にとっても内服しやすく、簡便で、内服管理が容易となる。
 専門的な診断、治療の過程を経ず、簡便に処方できることになったことで、複数の医師が生薬構成を十分に知らずとも処方をする状況が生じうる。また、同一患者に対して、各科から複数の漢方薬が同時に処方されることもめずらしくない。そして、生薬の総量全体を把握する医師もおらず、いつ副作用が生じてもおかしくない状況が生じている。レセプト上、同じ患者に9つの処方がなされていた例もあり、日本東洋医学会の安全管理委員会では、論文上でこのような状況に警鐘を鳴らしているが、0.7%の集団では如何ともしがたい状況となっている。
 また、処方に至るまでのトレーニング期間が、以前に比べて極端に減少してしまうため、誰もがある程度できるようになる状況が表面的にはつくられてしまう。そこで、80%という大多数の医師が、保険医療内でこの方法を用いて処方し続ければ、従来型のカスタマイズ方式は、徐々に立ち位置を失い、マイナーな領域へと追いやられていく。東洋医学の専門医は、全体の0.7%であるため、患者に応じて個別に生薬をカスタマイズする治療は、すでに自然消滅の状況となっている。専門家であればあるほど、生業の場を失いつつある。
 東洋医学では、科学的知見によって、より顕著に「病名漢方」は促進された。例えば、術後腸閉塞予防に大建中湯、慢性硬膜下血腫に五苓散といったものである。そこでは、東洋医学の知識はほぼ不要となり、漢方薬は、現代医学における便利な単なる一処方と化してしまう。漢方薬は普及したには違いないが、代替処方が生まれてしまえば、多くの医師は敢えて漢方薬にこだわる必要はないため、あっさりと見切りをつけてしまうであろう。
 エビデンス、臨床治験、ガイドラインは、現代医学の信頼を増し、より再現性の高い知見に基づいて診断、治療を行うための牽引力となってきた。いわば、現代医学における進歩の源泉ともいえる。一方で、このような科学的検証の果実は、診断、治療のプロセスを定型化するため、アルゴリズム化、マニュアル化、将来的な機械化をより容易にする方向へと進みがちである。それが強く意識されないのは、各専門領域では一定のペースで創薬の進歩があるからである。新薬は、診断、治療の情報がまだ集約されておらず、創薬の度に、大学など高度医療機関の専門家集団による研究が必要となる。東洋医学のように新薬があまり登場しない領域で、このアルゴリズム化、マニュアル化が促進されると負の側面が、より顕著に反映されやすい。つまり、後述のように専門家が不要となっていくのである。

アルゴリズム化の影響

 Bravermanは、「構想と実行の分離」よって、アルゴリズム化、マニュアル化が進むと、必要とされる技能は低度化し、それを扱えるだけの水準に必要な教育は顕著に減少すると結論付けている。2)
 東洋医学がマイナーであった頃には、専門家の技術はそれだけでも希少価値があった。しかし、多くの医師が簡便に処方する時代になると、東洋医学に関する技術的価値は相対的に低下する。新たに漢方外来と標榜しても、以前ほどの真新しさはなくなっているのがその例である。また、アルゴリズム化、マニュアル化によって、ある程度現場で対応できるとすれば、従来の技術の必要性は全体的に減少する。さらに、アルゴリズム、マニュアル化によって、習得に必要な時間は以前と比べて格段に短縮され、求められる技術の水準は低下する。
 Bravermanは、続いて、従来型の専門家集団は時代遅れとされ、“半熟練専門家”にとって代わられるという現実を突きつけている。実際に、従来の漢方の専門家による自費診療や、技術を駆使し時間をかけた診察は、経済的にも過酷な試練の前に置かれている。
 さらに次世代への影響として、Bravermanは従来型の専門教育制度の衰退と、専門家集団内における自尊心の喪失を挙げている。この両者は密接に関係している。そして、その心理的影響を無視することはできない。何故ならば、専門家は、健全な意味での自尊心、誇り、矜持によってお互いに強く支えられており、これらはその集団の“熱量”に関係してくるからである。東洋医学においても、すでに指導医、指導医施設の減少がみられ、Bravermanが警鐘を鳴らしたものと同様の状況が生じている可能性がある。
 かつての私が経験した師匠から学ぶという教育体系は、強い動機付けを有した人材を集めるのにも、自律的に学ぶ集団を形成するにも非常に有用な仕組みであった。簡略化された東洋医学体系は、科学的検証など現代医学的な“お化粧”がなされていても、奥行きにかける。「明日から使える」「すぐに使える」と謳うものに生涯をかける者がいるであろうか。もし、本当に「その程度のもの」だとしたら、敢えて、現在の立場を捨ててまで、東洋医学を志すものはいないであろう。
 東洋医学は、もともと0.7%の少数精鋭の集団であった。今後は、せめて、数少なくとも、規模に関わらない自律的な学びの場を創造し、自分で納得のいくまで深堀を続けるつもりである。

結語

 診断と治療、この過程は医師にとっては専門の核をなすものである。東洋医学においては、このプロセスは解体の方向を辿ってしまった。医師の80%にまで普及した漢方薬の背後で、0.7%の専門家集団は、立ち位置を失いつつある。従来の専門教育制度の衰退と専門家集団における自尊心の喪失の影響は大きく、次世代が続かないという状況が生じている。
 医学の中でも、薬学的、工学的な進歩が著しい分野では、技術的複雑性が増大しているため、専門家集団による活躍の舞台は多く、アルゴリズム化、マニュアル化による技術の水準低下というのは、「相殺され」、意識されにくいとされている。これがせめて東洋医学のみに生じている特殊な状況であり、他の専門分野に波及しないことを切に願っている。
 現在、父が危篤となり、ベッドの傍らで時間を惜しんで執筆している。父が闘病生活の中で自らを以て教えてくれたこと、その心意気が自分にも生きていることを願って、今回の章の締めくくりとしたい。

Abstact

For doctors, the process of diagnosis and treatment is the core of their expertise. In Oriental Medicine, this process has begun to disintegrate. While Oriental Medicine has spread to 80% of doctors in Japan, 0.7% of the specialist group is losing its position. The decline of the traditional specialized education system and the loss of self-esteem among specialist groups have had a major impact, resulting in a situation where the next generation cannot continue.
We sincerely hope that this is a unique situation occurring only in traditional Chinese medicine and does not spread to other specialties.

参考文献

  1. 田中耕一郎:ブレイヴァマンの労働過程分析にみる熟練労働の解体と病名漢方の台頭1                       かつての熟練労働者の実像と解体前夜,東方医学, 40,1. 受理日/2024年3月19日
  2. 田中耕一郎:ブレイヴァマンの労働過程分析にみる熟練労働の解体と病名漢方の台頭2                       テイラーの3原理を通した熟練労働の解体とその影響,東方医学, 40,1. 受理日/2024年3月19日

投稿者:田中耕一郎

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