日本の土壌と文化へのルーツ73  “人間の条件”としての料理

東邦大学医学部
東洋医学研究室
田中耕一郎
 

“人間であるための条件”としての料理

 料理研究家の土井善晴が料理について、以下のように述べている。
 「料理をしなくなれば、人間と自然、人間同士の交わりがなくなります。生まれてから成人するまでに、家族が作った料理を食べることがなければどうなるのか。私は、その人は「気づき」の機会を失うことになると思います。」1)
 「食事を通して得られる無限の経験は、人間の感覚所与を磨き、細胞のネットワークに記憶されています。その記憶が、感覚所与が受けた刺激に出会った時に、直観力に生かされたり、想像力が湧き上がったりするのです。」1)
 「人間には、他者(自然・人間・物)との関係性を通して、豊かな情緒が生まれます。情緒とは愛情であり、思いやりであり、共感力です。料理という名の労働は家族の要であり、料理が、人間を人間たらしめるのです。」1)
 「哲学者のハンナ・アーレント(1906-75)は『人間の条件』で近代のオートメーション化の流れにふれ、労働のことを「人間の条件の基礎的側面」と述べています。これまで人間は、料理をなにかに託しても、なにも問題ない、栄養さえ取れればいいと考えていたようです。だから、オートメーション化しても問題ないと思ってきました。欧州では、古代ギリシャ時代以降、料理をするという労働には、価値を与えてきませんでした。経済優先にして家事労働の大切さを忘れた社会は、無償の愛である家庭料理を価値のないものにしたのです。しかし、「人間の条件の基礎的側面」は失ってはならないものなのです。」1)
 「料理における「作る」と「食べる」は重なり合うものです。それは栄養素の受け渡しだけではなく、人間の情緒のやりとりをも含んでいるのです。さらに、それ以前に、人間は自然の恵みをいただくわけですから、料理は自然と人間の関係を取り持つものであり、人間の命が自然に依存していることを、日々自覚する機会でもあるのです。「地球」と「料理(労働)」とは人間の条件なのです。」1)
 「だからこそ、西洋では、食事の前に、神に祈りを捧げます。日本では、「いただきます」と手を合わせるのです。それは作った人への感謝であるのと同時に、大自然に向けられたものでもあるのです。」1)
 土井氏の料理観について興味深い点として、一つ目は共食の大切さであり、二つ目は料理という“労働”に関する極めて日本的な考え方である。この二点はすでに本誌の2025年の1号で、小田嶋文彦氏と加藤眞三氏とが論じている。2-3)ここでは、土井氏挙げている哲学者のハンナ・アーレントの学説を紹介しながら内容を深めてみたい。

土井善晴の論点 共食の意義

 小田嶋氏は、シュプリンガーネイチャー社とギャラップ社の総説を引用し、栄養価以外に、国家、地域に関わらず、共食の意義を改めて強調している。
 「(註:シュプリンガーネイチャー社の「Scientifically Supported Links Between Cooking and Well-being:調理とウェルビーイングの関連」の概要は)栄養価の高い食の摂取は、身体の健康に好ましい影響を及ぼす。家庭で調理を行うことは、生鮮食品を増やし加工度の高い食品を減らすころを介し、食事の栄養価を高める。従って家庭での調理は、栄養価の高い食事を提供する手段として重要である。加工度の高い食事が健康的と言えない大きな理由は、たんぱく質量が低く、脂肪と炭水化物の過剰摂取に繋がりやすいことである。」2)
 「栄養素は脳関連疾患、脳機能、気分などへの影響を介し、精神の健康にも影響を与える。ここでは炎症が主要な役割を果たしている可能性がある。共食は帰属意識や社会との繋がりを認識できる重要な機会であり、社会的健康に寄与する。一方、孤食は不幸と関係しており、精神的にはマイナスとなる。調理の実践は、達成感や自己効力感を醸成して精神の健康にプラスに作用するが、調理に対して負担感を覚える場合はマイナスに作用する。」4)
 「(註:ギャラップ社の「Wellbeing Through Cooking」の概要は)ウェルビーイングに関する諸特性との関係では、まず調理を楽しんだ人は、自分の人生が順調で充実していると自己評価する割合が高い。周囲から敬意を払われた・面白いことや楽しいことがあった・よく休息できたなどのポジティブな経験を身近にした人が多い、助けてくれ信頼できる人がいる割合が高い、などの結果が世界規模で得られた。この中の人生が順調で充実しているという主観的幸福度は、女性よりも男性の方が調理の楽しみとの関係が強かった。」2)
 「次に家族や友人・知人と食事を共にする共食についても、調理の楽しみと同様な結果が得られた。即ち共食頻度が高い人は、人生が順調で充実していると自己評価している。ポジティブな経験も多い、社会的な繫がりが強いなどの結果が世界規模で得られた。以上のように共食は精神的な、社会的に充実した生活と強い関係がある。逆に孤食はこれらの利点を逃す危険性を孕んでいるという事になる。」2)

ハンナ・アーレントという人物像

 土井善晴の論点の二つ目は料理という“労働”に関する極めて日本的な考え方である。土井氏は、哲学者のハンナ・アーレントを引用しながら、“労働”という言葉を用いているが、アーレントの学説を日本文化のフィルターを通して解釈しており、多少の説明があった方が、土井氏の真意をより深く理解できると考える。
 まず、哲学者ハンナ・アーレント(Hannah Arendt、1906年~1975年)についてみてみたい。
 「アーレントはユダヤ系ドイツ人で、マールブルグ大学などドイツの各大学で哲学や神学の勉強をしていました。ところが、ナチスの台頭とともに、政治活動にコミットせざるをえなくなります。一時期捕らえれたものの、運よくフランスを経てアメリカに亡命します。そこで言論活動を行って成功するわけです。」4)
 「もともとアーレントはハイデッカー(註:Martin Heidegger, 1889-1976年)のもとで哲学を研究していました。しかし、ナチスの台頭によって、ユダヤ人がどんどん迫害されるようになり、彼女はアメリカに亡命します。戦後彼女は、自分の体験も踏まえながら政治哲学の探究を進めていきます。全体主義の分析を行ったり、カント論も手がけたりして、非常に多岐にわたる仕事を残しています。」4)
 哲学者足るためには、出自を問わない。しかし、彼女の数奇な運命は、直面する現実を通して、自身にとってはもちろん、人類全体にとっての実存的テーマを押し上げることになった。だからこそ、アーレントの論説には迫力があり、深みがある。
 アーレントの根底にある問題意識は、「全体主義は、いかにして起こり、なぜ誰にも止められなかったのか。」であり、それを踏まえ、“人間”としての基盤はどうあるべきか、について生涯をかけて追求していくこととなった。
 「全体主義は、いかにして起こり、なぜ誰にも止められなかったのか。この茫漠とした現象の起源と機序を、「歴史的」考察によって突き止めようと試みたのです。アーレントは十九世紀初頭にまで遡り、歴史的資料のみならず、文学や哲学的言説を含めて広く考察することで、その起源が自分たちの足元にあること-西欧の近代の歴史と深く結びついているということを明らかにしました。『全体主義の起源』と、波紋を呼んだ『エルサレムのアイヒマン』は、現在も全体主義をめぐる考察の重要な源泉となっています。この二作を通じてアーレントが指摘したかったのは、ヒトラーやアイヒマンといった人物たちの特殊性ではなく、むしろ社会のなかで拠りどころを失った「大衆」のメンタリティです。現実世界の不安に耐えられなくなった大衆が「安住できる世界観」を求め、吸い寄せられていく-その過程を、アーレントは全体主義の起源として重視しました。」5)
 「極度の不安は、明快で強いイデオロギーを受け容れやすいメンタリティを生む、とアーレントは指摘しています。」5)

ハンナ・アーレントにおける『人間の条件』 

 「『人間の条件』の冒頭でアーレントは、古代(註:古代ギリシアのポリス)の「人間」観を基準にして、「人間」であるための三つの条件を示している。①労働(labor)、②仕事(work)、③活動(action)の三つである。この三つをアーレントは普通の英語とは少し違う意味で使っている。」6)
 「アーレントは、「労働」の方を、人間の肉体の生物学的過程として捉えている。人間の肉体が、生命として生きていくのに必要な物を作り出す過程である。もっと簡単に言うと、動物が餌を取って、貯えたり、巣を作ったり基本的に同じ営みである。それに対して「仕事」の方は自然の過程には属さない人工物を生み出し、自然環境とは異なる「人工的」世界を構築する営みである。つまり、生物体としての人間の生命を維持していく営みとは直接関係ないけれど、人間たちの生きる「世界」の中で価値を持つような、家具や機械、芸術作品などの作品(work)を作り出す営みである。」6)
 「アーレントが念頭に置いているのは、古代ギリシアやローマの都市国家における「活動」である。これは(物理的な暴力によるのではなく)言語や身振りによって他の人(の精神)に対して働きかけ、説得しようとする営みである。これは人間にしか見られない営みである。「労働」と「仕事」が基本的に個人の営みであり、必ずしも他の人との直接的に関わりを持たないでも遂行できるのに対して、「活動」は自分と同じように思考しているであろう他の「人格」を前提にし、それに働きかける営みだ。言い換えると、「世界」には自分一人がいるわけではなく、複数の人格が存在していることを理解したうえで、(直接的に知自覚することのできない)お互いの人格に影響を与え合おうとする営みである。」6)
 本誌の加藤眞三氏の解説3)を併せて参照してみよう。
 「生きるための労働から解放された後の人間の活動なんて想像もつかないと考えるかも知れません。しかし、実は、労働から解放された自由人は、ローマ時代にも平安時代にも存在していたのですから、人間にとって全く新しいことではありません。自由人や貴族はその時代の文化を遊びにより花開かせていたのです。」3)
 「ローマの自由人は、階級や性別に応じて多様な活動を行い、社会や文化を支えていました。政治、商業、芸術、娯楽、宗教など日々の活動の中で個々の役割を果たし、豊かな都市生活を享受していました。生活の糧をえるための労働(labor)が必要なくても、行うべき仕事(work)や活動(action)」はあったのです。」3)

土井善晴の論点 料理という日本的“労働”観

 土井氏のいう“労働”は、アーレントの分類でみても、単なる労働を意味していない。
 「他者(自然・人間・物)との関係性を通して、豊かな情緒が生まれます。」からは、活動との接点が示唆されている。また、「無償の愛である家庭料理」は、アーレントの分類に含まれていない。古代ギリシアやローマの都市国家において、料理とは、市民ではない奴隷の“労働”であり、価値を与えられていなかった。一方で、東洋における料理は、西欧と位置づけが全く異なっている。
 例えば、禅宗においては、日常の生活実践こそが修行そのものとされ、料理をつくるのも、頂くのも修行の一環である。修行僧の食事を担当する僧は、典座(てんぞ)と呼ばれ、非常に重要な役割を与えられている。
 道元が著した『典座教訓』には、作る側には、食材に対する敬意をもつ、道具を大切にする、食べる人の立場になってつくる、さらに、忘れてならない「三つの心」(三心)として、喜心(作る喜び、もてなす喜び、そして仏道修行の喜びを忘れないこころ)、老心(相手の立場を想って懇切丁寧に作る老婆親切のこころ)、大心(とらわれやかたよりを捨て、深く大きな態度で作るこころ)、手間と工夫を惜しまないことが記されている。
 食を頂く側には、「五観の偈」がある。それは、この食事ができるまでに携わった多くの方々の苦労や食材の尊さへの感謝、自分がこの食事を食べるにふさわしい行いをしたかどうかの反省、むさぼり、いかり、ねたみの心を制し、正しい心と行いをもっていただく、単に空腹を満たすためではなく、心身を養う薬としていただく、仏の教えをなしとげるためにこの食事をいただく、というものである。
 日本において、食事をつくり、頂くことが、ここまでの広がりを見せるとは、アーレントも知らなかったにちがいない。批評家の小林秀雄氏(1902-1983年)が述べているように、日本では、働くことを通じて自分を磨く“天職”という考え方がある。
 以上を踏まえると、土井氏のいう料理という“労働”は、アーレントのいう“労働”に限らない、“仕事”、“活動”を横断的に含む崇高な営みともいえる。

“人間であるための条件”として最も重要な“活動”

 アーレントは、労働(labor)、仕事(work)、活動(action)の中で、活動を最も重視している。
 アーレントは、「活動」の前提に「複数性 plurality」という考えを提示している。「「活動」に参加している各人の内でも、多様な他者との意見交換を通じて、複眼的なパースペクティヴが形成される。その意味では<plurality>は多元性と訳すことができる。」6)
 「アーレントは『全体主義の起源』でも、大衆社会の中でアトム化した状態で生きる人たちの孤独と、全体主義体制による「複数性」の最終的な破壊という問題を取り上げている。アトム化して、周りから見捨てられているという感情を抱いている人たちを一つの世界観によって再度、“一つ”にまとめようとする全体主義は、異なった意見を持つ人々が複数のパースペクティヴから討論し合って、物の見方を多元化する余地=(空)間を潰してしまうのである。」6)
 活動の場と、そこで創造される多元性、複数性こそが全体主義に対する防波堤となり得るとアーレントは考えたのである。
 一方で、現代社会における活動は、AIなど科学技術の発達、超高齢化社会において、別の意味を問いかけている。
 「ハンナ・アーレントは、労働を生存のために必要な行為(食糧生産や日々の生活維持)として、仕事は人間が物を作り出す創造的な行為(建築、芸術など)であり、活動は政治的・社会的に自由な行為であり、近代以降、人類は労働に支配されてきたため、仕事や活動がおろそかにされてきたと述べています。人類は労働のために時間を奪われてきたのです。アーレントは、現代の技術的・科学的な発展が人間を機械的で効率的な存在に変えてしまう危険性を指摘してはいましたが、自由で創造的な「活動」の価値を再評価することで、人間らしさを取り戻せると考えていました。技術の発展に伴う利便性の中で、人間は自由や他者との関係性を意識的に守る必要があること、「活動」を通して、多様性や共同性を取り戻すことが、持続可能な未来を築く鍵となることを指摘したのです。」2)
 「今、AI、ロボット技術の発展のために、今後人類は労働から解放され、豊富な時間をもつことになりそうです。アーレントの考えは、テクノロジーが支配する現代社会において、今後、人類がどのように人間らしい生き方を守るかという問いを投げかけているのです。」2)
 検索すれば、すぐに答えが見つかると思わされる世の中で、非常に難しい現実のかじ取りが必要な世の中となってきている。東洋においては、日常の生活実践こそが修行そのものであり、料理はその重要な一つであると考えられてきた。アーレントが“人間”たる条件として提示した労働、仕事、活動を踏まえつつ、土井氏のいう東洋的な“労働”観が助けになるように思われる。

結語

 土井氏から投げかけられた調理するという創造性は、人との接点を生み出す。共食の健康に及ぼす影響は改めて強調されても良いであろう。また、ハンナ・アーレントは、“人間であるための条件”として、労働(labor)、仕事(work)、活動(action)を挙げ、中でも活動の重要性を説いた。日本において、料理を作ることは単なる労働ではない。自然の恵みへの感謝、作る側も頂く側も自分の心の在り方を振り返る大切な機会でもあった。古代ギリシアやローマの都市国家では料理は、市民ではない奴隷の仕事であり、価値を与えられてこなかったかもしれないが、日本においては別の意味を有している。おそらく、現在の“おもてなしの精神”にも反映されているのであろう。

Abstact

Japanese Traditional Herbal Medicines (Kampo) and Everyday Plants: Roots in Japanese Soil and Culture. vol.73;

The creativity of cooking, which Mr.Doi suggested, creates a connection with people. The impact of eating together on health may be emphasized once again. Hannah Arendt cited labor, work, and action as the "conditions for being human," and emphasized the importance of action in particular. In Japan, cooking is not just labor. It is also an important opportunity to express gratitude for the blessings of nature and to reflect on the state of mind of both the cook and the eater. In ancient Greek and Roman city-states, cooking was the work of non-citizen slaves, and may not have been valued, but in Japan it has a different meaning. This is probably reflected in the current "spirit of hospitality."

参考文献

  1. 土井善晴:学びのきほん くらしのための料理学,NHK出版. 2021
  2. 小田嶋文彦:食と健康に関わる諸問題 メンタルヘルスとソーシャルヘルスへの食の関り9,医と食、7(1):41-49、2025
  3. 加藤眞三:患者学のすすめ その86 ケアとアートの時代へ,医と食、7(1):57-59、2025
  4. 小川仁志、萱野稔人:闘うための哲学書,講談社,2014
  5. 仲正昌樹:悪と全体主義,NHK出版,2009
  6. 仲正昌樹:今こそアーレントを読み直す,講談社,2009

投稿者:田中耕一郎

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