日本の土壌と文化へのルーツ76 イザベラ・バードの旅の収穫

東邦大学医学部
東洋医学研究室
田中耕一郎
 

緒言

 イザベラ・バード(Isabella Lucy Bird, 1831~1904年、19世紀の大英帝国の旅行家、紀行作家)を主人公とした「ふしぎの国のバード」1)という書物がある。実際のイザベラを脚色している部分はあるが、作者の思いも込められた言葉のやり取りが、非常に考えさせられる内容となっている。
 物語の下地になっているのは、イザベラ・バードの執筆した『日本奥地紀行』(英文タイトル:Unbeaten Tracks in Japan 1878年)2)である。1878年(明治11年)6月から9月にかけは執筆され、1880年(明治13年)に刊行された。明治維新以後の日本の状況、古い伝統と新しい近代化にもまれる人びとの姿が、温かいまなざしをもって描かれている。
 今回は、明治維新によって近代化を積極的に受け入れた日本の姿を追いながら、文化とは、どういうものなのかみていきたい。

バードが悩まされた病気 背部痛

 イザベラ・バードは背部痛に長年悩まされていた。
 「30代のイザベラは体調不良でいつも背中の痛みに悩まされ、未婚の妹ヘンリッタとともにエディンバラの高級住宅街に住み、そこでインテリの女性たちと交流した。だがイザベラは尋常ならざる女性である。このような普通の生活では物足りず、エネルギーと熱情にあふれ、進取の気性に富んだ女性にとって次第にあきたらなくなってきた。彼女はもはや40歳である。持病に加えて不眠症と精神的抑圧が彼女を襲ってきた。彼女は自分の年齢を意識し、満たされず、いらだち、不機嫌になり、挫折して失意のどん底にあって精神的崩壊寸前の状態にあるような気がしてきた」3)
 「骨の痛みは手足をチクチクと針やピンで刺すような痛みを伴う神経痛が原因です。それに耐えがたい不安と消耗感、眼の充血、のどの痛み、両耳の後ろの腺から漏出する液などで悩みはつきません。」3)
 イザベラの症状は、当時の医学では、激しい痛みの訴えを十分に説明しうる器質的はないと考えられ、主治医からは転地療法を勧められた。整形外科疾患ではあるものの、神経症の範疇とも捉えられていたようである。
 イザベラの呈していた症状は本人に限らず、当時のイギリスの貴婦人に多く見られた“症候群”でもあった。近代化が急速進むイギリスにおいて、当時女性が置かれていた環境と関係があるとされている。現在でいえば、慢性疼痛でペインクリニックに通院する患者層と共通点があるかもしれない。ともかく、イザベラは転地療法として海外へと向かう。
 その旅路において、イザベラは、ハワイ諸島へ向かう船でハリケーンに遭遇し、乗船客は生命の危機に見舞われる。イザベラは奔走し、一つ一つ事をこなしながら、危機を脱出する。この体験の最中に、イザベラは長年苦しんできた背中の痛みがすっかり消え去っていたことに驚く。「イザベラはこの状況を冷静に観察する余裕をもってやりすごし、危機との遭遇がかえって心身の健康回復に役立つことを確信した。」3)
 「この正真正銘の危機に遭遇したときのえも言われぬ緊張感、熱帯の夜明けと嵐のドラマ。それに自己責任のない大洋の大波に翻弄されるがままの賑やかな生き方はひどく活気あふれるものであった。イザベラの体調が突如として良くなり、精神が開花したのはまさにこの時であった。」4)
 「死がそばにあってはじめて、生きている意味を感じられるの』1)と語らせている。イザベラにとって、恵まれた近代国家での生活は退屈で、好奇心のままに世界を巡り、筆を走らせることが、生きがいであり、使命であったのだろう。
 もし、イザベラが現代に生きていたら、病院で抗うつ剤を投与されて、そのままイギリスで、日常生活を送っていたかもしれない。当時の医学は、いい意味で寛容であり、症状だけではなく、その背後にある人の本質を見抜く眼を有していたようだ。
 イザベラの旅は、ハワイ諸島に始まり、世界を巡る旅へと展開していった。その中でも転機となったのが日本での旅であった。イザベラは、『日本奥地紀行』の前書きで、「日本に対する興味は私の期待を大きく上まわるものであった。」2)と述べている。

バードのマイノリティーに対する姿勢

 宮本常一(民俗学者:1907~1981年)は、北海道のアイヌの村を訪れたエピソードから、当時の日本人とイザベラのアイヌへの眼差しの違いについて述べている。
 「午後の間に数人の「患者」(大部分は子どもだが)が持ち込まれてきた。伊藤(イザベラの通訳兼従者)は私がこれらの人びとに興味をもっていることを非常にいやがった。彼はなんども「ただの犬です」という。
 つまり伊藤がアイヌは犬と人間のあいのこなのだということをまじめに信じていたということで、そういうものが偏見として当時の日本人の間にあり、それはただ観念的なものではなく、一つの生態的なものであったと言ってもいいのではないか。そういうこともアイヌが日本人にしいたげられていった一つの大きな原因になっているのではないかと思うのです。その点、イザベラ・バードにはそういう偏見が全然なく、人間である限り誰でも命は大事であるという考えが根本にあったわけで(後略)」5)
 宮本常一は、イザベラのアイヌに対するエピソードを引用している。
 「夕方一人の男がやって来て、やっとしか息のつけない女がいるから行って見てくれないか、と頼んだ。行ってみると、彼女はひどい気管支炎で、だいぶ熱があった。」
 「私(註:イザベラ・バード)は彼女に少量のクロロダイン(麻酔鎮痛薬)を与えた。彼女はそれをやっと飲みこんだ。そしてすでに調合してあるもう一服の薬を数時間後に飲ませるようにと言って、そこを出た。しかし真夜中ごろ、彼らがやって来て、彼女の病状が悪化したという。行ってみると、彼女は身体がとても冷たく、弱っていた。呼吸もたいそう困難そうで、頭をだるそうに左右に振っていた。これでは何時間ももつまいと思い、私が彼女を殺したと人びとに思われはしまいかと心配した。しかし彼らは私にもっと何か手当てをしてくれというので、私は最後の望みとして彼女にブランディとクロロダイン25錠、非常に強力なビーフティー(牛肉を煮詰めた滋養飲料)を数匙与えた。彼女はそれを飲みこもうとする力もなかった。というよりも、むしろ飲みたがらなかったかもしれない。そこで私は、樺の樹皮がぎらぎらと燃える光の下で、彼女の喉に薬を注ぎこんだ。一時間後に彼らがやってきて、彼女は酔っぱらったようにふらふらしていると言った。しかし彼女の家に戻ってみると、彼女はすやすやと眠っていた。呼吸も前より楽になっていた。ちょうど夜明けごろ、また行ってみると、やはり眠っていたが、ずっと脈搏も強く落ち着いていた。もう彼女は目立って快方に向かい、意識もはっきりとしていた。副酋長である彼女の夫は大喜びであった。」5)
 宮本常一はこのエピソードを踏まえて、以下のように結んでいる。
「こうして一人の女が救われることがアイヌたちにとっては非常に印象深いことだったと思うのです。こういうことと、日本人のアイヌに対する態度の間にはかなりの開きがあったわけで、イザベラ・バードのヒューマニスティックな態度の中から、日本人の欠けた点がわかってくるのです。
 彼女の調査をみていると、ただ相手の文化を調べて奪い取るだけではなくて、返せるものはできるだけ返していこうという姿勢がある。しかし、すべての外人がそうだったかというと必ずしもそうではなかったのです。」5)
 イザベラは西洋の医薬品を持ち歩き、旅の途中で求められれば、人びとに用いて命を救っている。イザベラはここではブランディを用いているが、東洋医学でも白酒を用いて治療する。モンゴル国に滞在時、感冒に罹患したところ、地元の方から、胡椒を加えたウォッカを与えられた。内服後、身体がすぐに暖まり、発汗した後、悪寒はすっかり消失し解熱していた。その後、ベッドで横になって目覚めた頃には、状態はすっかり良くなっていた。インドではコショウ科のヒハツという植物の果実も使われる。沖縄で泡盛につけて食事の調味料とするピパツの類縁種である。敢えて漢方薬を使用するとすれば、麻黄附子細辛湯という処方が当てはまる。
 イザベラは、感冒に唐辛子も用いている。
 「彼はひどい風邪を引き、喉を痛めており、手足がひどく痛み、あわれなほど悲しんでいた。たいへん同情して看ている彼の妻を宥めるために、私は彼に少しばかり『帆立貝印の丸薬』を与え、一摘みの唐辛子をお湯一パイント(約三合)で飲むという猟師の治療法を教えてやった。彼は唸りながら、布団にくるまっていた。ほとんど密室のような部屋に閉じ籠り、火花の炭火が空気を汚していた。今朝私が彼のところへ行き礼儀正しく心配そうな口調で見舞うと、彼の妻はたいそう喜んで、彼はすっかりよくなって外へ出かけた、と答えた。そして私が与えた薬をもっと貰いたい、と二十五銭置いていったという。そこで私は、勿体ぶって、ダンカン・フロックハート印のとても辛い唐辛子を取り出し、どれほどの分量を、用いたらよいか教えてやった。」2)
 イザベラの記述から、西洋の民間療法で、唐辛子が使われていたようである。

西洋の模倣を超えた日本の医療とは

 秋田への旅路に、小林という医師がバードと通訳兼従者の伊藤に同行する。その中で、小林は自分自身の身の上をバードに語る。(この辺りは、実際とは脚色されている。)
 「自分は以前、漢方医に師事していました。当時の師は西洋医学をひどく嫌い、憎んでさえもいました。ある時、師は我々弟子達を従えて、西洋人の医師のもとへ押しかけました。『西洋医学の手術とやらを見せろ』『化けの皮を剥いでやる』と。
 そして自分は、その時みた西洋人医師の、正確で美しいメス捌きに、震えるほど感動しました。ただ、その日の患者は絶望的な病状で、手術は成功しませんでした。師はすべてを見届けたあと、我々にこう言いました。『お前達全員を、今日限りで破門する。私は、西洋医学を学ぶことにした。』
 それ以来、自分も西洋医学を志したのです。
 ただ自分は、西洋医学と並行して、この国の伝統的な医療も研究してきました。いま、この国の多くの西洋医は昔の治療法など全て非科学的だと思い込んでいます。しかし自分はあの日、己の先入観を覆す勇気を師から学びました。
 西洋の文明は素晴らしい。でも例えば脚気のようなこの国独特の問題は、足元をよく見て、我々自身で考えなければ、解決することはできません。西洋の模倣を超えてはじめて、真の近代化が成せると自分は考えます。」1)
 イザベラは、小林の思いに対し、「古いものを大切にしながら、新しいものを創り出していく、それこそ理想的な考え方よ」と応えている。
 明治11年頃には、イギリス人が伝道を兼ねて、この地方(註:新潟、新発田、米沢)へ入って、医療にたずさわっていた。それを日本人の医師も協力していた。
 「日本人の医者たちはここ(新潟から新発田へ向かう途中)でもパーム博士の心からの助力者となっていて、その中の五人か六人が協力して施療院をつくっている。この人たちは公平無私、熱心さ、そして誠実という稀な美徳の持ち主である、とパーム博士は認めている。」5)
 また、このエピソードでは、脚気をこの国独特の問題として挙げているがが、現代に当てはめると、精神疾患を例にとってみても、それをもたらしている日本の文化・社会的背景から考えていかなくてはならないという意味に受け取れる。(当時、脚気は原因不明の伝染病という説や、軍隊、特に海軍に多く見られたことから土を踏まないことで起こるとも考えられていた。地域によっては貧困のため十分に栄養摂取されていなかったことも原因とされている。)
 土地によって食べ物が違うように、そこで育まれる人間も違ってくる。中国語ではそれを「一方水土一方人」と表現している。近代化が進み、世界は以前よりも均一化されてきているとはいえ、その国の疾患には、その土地の文化的背景も影響していると考えられる。
 西洋の模倣を超えるというのは、近代化以降の日本の課題であったが、今日になっても、背景が違うそれぞれの医療の良さを維持しながら組み合わせる困難さを感じている毎日である。

日本人の微笑

 当時、西洋人は、日本人が悲しい時に浮かべる微笑を非常に不思議に感じていた。イザベラもまた、夫を亡くしたばかりの女性が、微かに笑みを浮かべながら、その事を話している様子を不思議に思い問いかけるエピソードがある。
 「何よりも夫が急に亡くなったもので、少し慌ただしくしております」
 「あの、お雪さん、どうして笑っているんですか?」
 「・・・・・・?」
 「気を悪くしたらごめんなさい。でも悲しみに暮れているはずなのに、とてもふしぎで・・・」1)
 小泉八雲(1850~1904年、探訪記者、紀行文作家、日本研究家、英文学者)も、この“日本人の微笑”をとらえていた。『日本の面影』には以下のように述べられている。
 「日本人の微笑は「念入りに仕上げられ、長年育まれた作法」である、と八雲は指摘します。」6)「日本人が顔に穏やかな微笑みを浮かべていること自体は、西洋人にとってもたいていの場合は喜ばしいはずです。しかし、その同じ微笑みが、たとえば、苦痛、恥辱、落胆など、およそ笑ってはいけないような場面において見られた場合、西洋人は初めて、その日本人の微笑に対して不信感を抱く、と八雲は説明しています。」6)
 「日本人にとって微笑とは幼い頃から教えこまれる礼儀作法であり、目上や同輩などどんな人とも、どんな場面でも軋轢なく過ごすための「教養のひとつ」である、と八雲は断じます。逆に、微笑みを浮かべず不幸そうに見えるということは、相手に対して無礼になる。なぜならそれは、「好意を持ってくれる人々に、心配をかけたり、苦しみをもたらしたりする」からである—。」6)
 「八雲自身も当初は、たとえば、子供を亡くした日本人の女中が、自分の子供の死を微笑みながら話したりするのを理解できなかったといいます。しかし、日本での生活になじみ、その微笑の意味するものを理解した彼は、母親の立場に立ち、その思いをこう代弁するのです。
 「この笑いは、自己を押し殺しても礼節を守ろうとする、ぎりぎりの表現なのである。この笑いが意味しているのは、『あなた様におかれては、私どもに不幸な出来事が起こったとお思いになりましても、どうぞ、お気を煩わせませんようお願いいたします。失礼を顧みず、このようなことをお伝えいたしますことを、お許しください』という内容なのである。」6)
 「八雲は、日本人の微笑とは、「自己を抑制し、己に打ち克った者にこそ幸せは訪れる」という日本人の道徳観を象徴していると結論づけています。その範例として、鎌倉大仏における慈悲深い微笑みこそ、その理想を体現していると述べています。」6)
 「生にも愛にも、また死に対してすらも微笑を向ける、あの穏やかで親切な、暖かい心を持った人たちとなら、ささいな日常の事柄についても、気持ちを通じ合う喜びを味わうことができる。そうした親しみと共感を持つことができたなら、日本人の微笑の秘密を理解することができるのである。」6)
 相手に失礼のないよう行う作法、これは“日本人の微笑”の背景にあるものであった。化粧も同様で、出会う相手に失礼のないように人知れず行っていたのが当時の化粧であった。現在、人の眼を気にせず、公衆の場で化粧ができるとすれば、それは背景にある文化が変わったからである。

文化は滅びゆく運命なのか

 通訳兼従者の伊藤が、イザベラに旅への情熱について尋ねる箇所がある。
 「バードさん、あのアイヌに同情しているんですか?」
 「今、開拓の名の下に数多の文明が変化を迫られ、あまつさえ絶滅の危機に瀕している。風景も文化も生活も、消え去る運命にあるのかもしれない。まるで砂浜の足跡のように。だから今我々が記録しておかなければ」1)
 重症の気管支炎から命を救ったアイヌの女性もまた、イザベラに旅の理由を問う。
 「客人よ、旅の目的を効かせてくれないか」
 「えっ?」
 「我々の暮らしを記録し、他の文化を比べる。それで一体、そなたは何を求めているのか。」
 「私は、英国という世界で最も文明の発達した国に生まれ、死んだように生きていました。進歩は幸せをもたらすものだろうか。古の暮らしをする人々の、かけがえのない文化が消えた末、人は皆幸せになるのか?もしも、そう言い切れないとしたら—なんのために、なんのために滅びるのか?その答えを求めて、私は旅をしています。」1)
 イザベラの旅の目的には、もちろん大英帝国から地政学的な情報収集の要請、布教の可能性を探る意図はあった。ただ、イザベラ個人としての想いはどのようであったのか。近代化に伴って、文化はただただ滅び去るものなのだろうか。
 イザベラ自身は、当時のアイヌの箇所で以下のように述べている。
 「アイヌは邪気のない民族である。進歩の天性はなく、あの多くの被征服民族が消えていったのと同じ運命の墓場に沈もうとしている。」2)
 文化とは、人々が、その土地の自然に共生していく過程によって育まれる。伝統的な社会の営みは、近代化における直線的な発展と異なり、持続可能な循環型である。アイヌを例に取れば、神への信仰において、生活に必要範囲内での動植物の殺生が認められ、ヒンナ(食事に感謝する言葉)を口にしながら、食事を頂く。これは他の生命に対する畏敬の念と関係している。また、循環型社会では「未来はどうなるのか、ということについて、彼らは何もはっきりした考えを持っていない」「彼らは時間を計算する方法をもっていない。だから自分の年齢も知らない。彼らにとって過去は死んだものである。」2)のように明確な時間を持たない。過去—現在—未来という直線的な時間の時間の概念は、近代になって生み出された感覚である。しかし、人々は、今ではその時間感覚に追われ続け、精神を病む事態になっている。ミヒャエル・エンデが『モモ』に描いた世界である。
 イザベラは、伝統的な生活をただ美化するのではなかった。近代化された文明に住む人間として、また、キリスト教徒として、アイヌの暮らしに対して批判的な眼も有してもいた。
 「私は今ではアイヌの未開の生活を赤裸々に眺めることができるようになった。これはみじめな動物的生活を抜け出していない生活である。彼らの生活は臆病で単調で、善の観念をもたぬ生活である。彼らの生活は暗く退屈で、この世に希望もなければ、父なる神も知らぬ生活である。しかしアイヌの最低で最もひどい生活でも、世界の他の多くの原住民たちの生活よりは、相当に高度で、すぐれたものである。それから—これは私がつけ加える必要がないかもしれぬが—、アイヌ人は誠実であるという点を考えるならば、わが西洋の大都会に何千という堕落した大衆がいる—彼らはキリスト教として生まれて、洗礼を受け、クリスチャン・ネームをもらい、最後には聖なる墓地に葬られるが、アイヌ人の方がずっと高度で立派な生活を送っている。全体的に見るならば、アイヌ人は純潔であり、他人に対して親切であり、正直で崇敬の念が厚く、老人に対して思いやりがある。」2)
 イザベラは、近代化における精神的な荒廃を目の当たりにしていた。一方で、アイヌの正直さ、崇敬さに感銘を受けるとともに、アイヌ社会には、戦争という概念が存在していないことを記している。
 「彼らには、互いに殺し合う激しい争乱の伝統がない。戦争の技術は遠い昔になくなってしまったように思われる。」2)
 イザベラから学ぶこととして、少なくとも、近代化を野放しにするのは、人類にとって危険と言えるかもしれない。各地域に残されてきた自然との共存の営みが、その抑止力、また社会の再構成の際に力になるのではないかと考える。

結語 イザベラの旅が示唆するもの

 アイヌの青年から、伊藤は西洋人のイザベラに同行する中で何を学んだかを問われるs-んがある。
 「伊藤はバードさんから一体、何を学んだんだ?」
 「これまでの旅路で、教えられたこと・・・・・・。永く廣い視座を持つこと、異なるものを認めること、己の信念に誇りを持つこと。
 出来ないことばかりだが、一歩一歩進んでいきたいと思っている。」1)
 イザベラ・バードは、当時、世界で最も進歩した近代国家、イギリスで恵まれた生活を送りながらも、慢性疼痛、抑うつ気分に悩まされていた。イザベラ・バードは、その国を飛び出し、世界を果敢に旅することで、健康を回復していく。その治癒過程には妹も大きく関わっていた。近代化する中で滅びていく文明があるのは事実だが、自然と共生することで育まれた文化は、物質的には今ほど豊かではないかもしれないが、精神的な恩恵を多く含んでいたと考えられる。
最後に、『日本奥地紀行』の前書きの言葉を引いて、本稿を閉じたい。
 「本書の原稿を印刷に渡してから、私の愛する唯一の妹がこの世を去った。本書は、まず最初に、妹に宛てて書かれた手紙集であり、妹の有能でしかもきめの細かい批評に負うところが多い。妹が私の旅行に対して愛情と興味をもってくれたことは、私が旅行を続け旅行記録を綴るときの大きな励ましであった。」2)

Abstract

Japanese Traditional Herbal Medicines (Kampo) and Everyday Plants: Roots in Japanese Soil and Culture. vol.76;

Isabella Bird lived a comfortable life in England, the most advanced modern nation in the world at the time, yet she suffered from chronic pain and depression. She left the country and boldly traveled, eventually recovering her health. This article introduces Japan as seen by Isabella at the time. It is true that some civilizations die out as they modernize, but cultures that were able to coexist with nature may not have been as materially prosperous as they are today, but they are thought to have contained many spiritual benefits.

参考文献

  1. 佐々大河:ふしぎの国のバード 1-13巻,KADOKAWA,2015-2025
  2. イザベラ・バード、高梨健吉訳:日本奥地紀行,平凡社, 2000
  3. パット・バー,小野崎晶裕:イザベラ・バード 旅に生きた英国婦人,講談社,2013
  4. 金坂清則:イザベラ・バードと日本の旅,平凡社,2014
  5. 宮本常一:イザベラ・バードの旅 『日本奥地紀行』を読む,講談社,2014
  6. 池田雅之;NHK100分で名著 日本の面影 小泉八雲,2016
 

投稿者:田中耕一郎

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