日本の土壌と文化へのルーツ77 宮本常一に見る“在野”の視点
2026年03月09日東洋医学研究室
田中耕一郎
緒言
日本の総人口の約3割が東京圏(東京・神奈川・埼玉・千葉)に居住し、若年層(20〜30代、特に女性)が大学卒業後や就職・結婚を機に転入する傾向が強く、東京の人口増を支えているという。その流れにあって都市部と地域との間の医師偏在も問題となっている。
今回は、日本列島を自らの足で歩き、全国各地の人びとの生活のあり様を記録し、農業指導、地域振興の架け橋となった宮本常一氏を紹介しながら、考えてみたい。
宮本常一という人物
宮本常一(1907~1981年:民俗学者・農村指導者・社会教育家)は、周防大島の農家に生まれた。周防大島は、山口県の東南に位置する離島で、淡路島、小豆島に次いで瀬戸内海で三番目に大きな島である。JR山陽本線の大畠駅で下車した後、バスを利用すると、長さ1㎞ほどの大島大橋を経て、大島へと到着する。
2024年1月時点の人口は13,897人であるが、昭和22年(1947)のピーク時には65,000人が居住していた。またハワイへの手稼ぎが人口の11%を占めていたという。宮本が活躍した当時の周防大島は今以上に活気に溢れていた。周防大島出身の作詞家に星野哲郎(1925~2010年、代表作に『男はつらいよ』の主題歌など)がいる。
地方の人口減少は周防大島にとっても例外ではない。出生数を死亡数が上回る自然減に加え、進学や就職による若年層の町外転出(社会減)が重なり、それに伴い高齢化率が上昇し(2020年時点で54.1%)、2050年(令32)には、 人口が約6,363人(2020年比で約57%減)になると予測されている。
宮本常一は、15歳で大阪に出て、郵便局員として働きながら、大阪府天王子師範学校(大阪教育大学の前身)で学び、後に小学校、中学校の教員として勤務した。その間、民俗学者柳田國男の著作に影響を受け、民俗学の研究を志すようになる。
その後、渋沢敬三(大蔵大臣、渋沢栄一の孫)が主宰するアチック・ミューゼアムの研究所員となり、本格的に全国各地の民俗調査を行うようになる。
“傍流”の学問 宮本常一の民俗学
宮本常一の民俗学は、アカデミックな視点からは“傍流”とされている。1)これは実は褒め言葉でもある。それは宮本を支援した渋沢敬三の言葉によく表れている。
「大事なことは主流にならぬことだ。傍流でよく状況を見ていくことだ。舞台で主役をつとめていると、多くのものを見落としてしまう。その見落とされた者の中に大事なものがある。それを見つけていくことだ。人の喜びを自分も本当に喜べるようになることだ。」2)
また、周防大島から大阪に出る際に、父親から世間を歩く際の心構えとして、十か条を託された。10番目に「人の見のこしたものを見るようにせよ。その中にいつも大事なものがあるはずだ。あせることはない。自分のえらんだ道をしっかり歩いていくことだ。」2)という心構えが記されている。この教えはそのまま宮本の民俗学への指針となった。
宮本常一はこれらの教えに忠実に基づくことで、 “傍流”の視点から外れることなく、“主流”ができない仕事を残した。
例えば、宮本が描いたのは、歴史書に記されるような為政者による「大きな歴史」ではなく、現場、庶民の「小さな歴史」であった。宮本は、実際の自分でその地域を訪ね、「歩く・見る・聞く」ことを大切にした。
「『歩く・見る・聞く』民俗学を実践した宮本常一は、地域に住む人びとの「小さな歴史」を丹念に記録して、日本各地の庶民の生活を描く膨大な著作を残した。」1)
宮本の眼差しは現地調査に対する姿勢にもよく表れている。畑中章宏(民俗学者。1962~)は、宮本常一と柳田國男(1875年~1962年、民俗学者。農商務省(現在の経済産業省・農林水産省)官僚、貴族院書記官長(現在の衆議院事務総長/参議院事務総長に相当))とを対比させながら、“気風”の違いについて、以下のように記している。
「柳田は、電車や汽車を使い、旅先の風物・風光を、自らの知見をもとに学者の目で見て記録する、そんな「知的な旅行」を感じさせます。一方、宮本の旅はまるで違います。三十二歳年上の柳田の時代より交通網は発達しているはずなのに、リュックを背負い、ゲートルを巻き、ズックの靴を履いて歩きながら、地域の人の話を聞き、そこに生活する人びとの慣習やリアルな営みに迫る。後に出版する雑誌『あるくみるきく』の名の通り、歩いて見て聞き、生きた『生活そのもの』を記録するのです。」1)
両者の“持ち味”は異なるものの、太平洋戦争の最中、自宅が空襲に見舞われて、調査ノート、書籍の多くが燃え盛る中、宮本常一が必死の思いで持ち出したものは、柳田國男の『遠野物語』であったとされている。
「宮本は歩きながら写真をたくさん撮りました。歩くということは、目的地に着くまでに時間がかかります。しかし、車で行ったら時間は短縮できるけれど、道端にある祠や石碑を見落とすかもしれないし、農作業をしている人のちょっとした仕草も見落とすかもしれない。歩くことで、より多くの情報を得ながら、目的地に辿り着くことができる。目的地に着くまでの時間が、すでに民俗調査なのです。そして旅の途中で膨大な量の写真を撮ることで、それを調査研究に生かしました。宮本自身のフィールドワークをふまえてこのように記しています。」1)
「・・・・・・村の風物の中にはそこにいろいろの差が見られるが、それらはみな、それぞれの歴史と理由を持っており、われわれの生活意識の表現でないものはない。そしてこのような村里の風物に接することによって、われわれはその中に含まれた意味を汲みとらなければならない。(中略)自分の知っているのみの世界が世界のすべてではなく、知られざる世界が、われわれの考えのおよばない世界が、そのかなたに無限にかくれている。そうしてわれわれの求める真理や世界には、ついに結論はないのである。」3)
宮本の民俗学は、「思想や理論がない」「その方法を示していない」、「叙述に終始している」とアカデミックな民俗学者から批判を受けていた。そのような意味でも学会における“傍流”であった。
宮本はマニュアルだけに囚われず、それからこぼれ落ちるものも丁寧に記録していった。
「アカデミズムのメソッドにおいては、民俗調査のマニュアルには意味があるけれど、その画一性にはデメリットもあるのではないか。むしろそこからこぼれ落ち、はみ出した部分のほうにこそ面白さがあり、マニュアルによらず聞き出したことや体験のほうが、より普通の人びとの生活を描き出し得ることが、『忘れられた日本人』を読むとよくわかります。」1)
「小さな歴史」の意味
「小さな歴史」はどのような時に特に意味をもつのだろうか。
畑中章宏は、震災の復興にこそ、この「小さな歴史」が大切であることを強調している。
「『大きな歴史』(註:人類史や文明史)にからめとられずに、小さな集落の多様性や、個々の人生の機微を見つめ、普通の人びとが各地でどのような生活を営み、過去にどのような人生を送ってきたかを考えなければいけないのではないか。震災(註:東日本大震災)は広範囲にわたり、被災地域ごとにその様相も異なるし、被害と向き合う人びとの感情も、一括りにはできないような事態と考えたからです。
そこで、地域に個別のディテール、そこに暮らした歴史に名を残すことなく消えていった庶民の生活史に改めて目を向けようと、『忘れられた日本人』をはじめとする宮本の著作を読み直していきました。
すると、人類や文明が進歩し、発展していくその陰で、後退したり、停滞したり、忘れられようとしている大切なものが見えてくる。また、小さな成功と失敗の繰り返しのなかで、ものごとは徐々に変化していくということもわかってきます。それは地域の風土のなかに身を置き、慣わしのなかで生きてきた人びとの心のありように共感しながら、同じ速度で歩いた宮本だからこそ、記録し得たのだと思います。」1)
さらに宮本は「小さな歴史」を記すだけではなく、その調査研究の成果から、農業指導者、地域振興の支援者として貢献した。
「戦中・戦後にかけて大阪府農務部・農地部、新自治協会から委託を受けて、農業指導の役割を担った。大阪府下では農村を調査し、食料政策、農業技術の普及、農村経営の近代化を指導した。
新潟県佐渡国小木民俗博物館の設立や『おけさ柿(八珍柿)』の栽培奨励、創作和太鼓『鬼太鼓座』創設への協力、新潟県山古志村(現:長岡市)では錦鯉の養殖や『牛の角付き』(闘牛)の復興による活性化、山口県光市では猿回しの復活などに尽力している。」4)
「宮本民俗学の実践への接続で最も大きな結果は離島振興法の成立に寄与したことだろう。宮本は1952年から離島振興法の制定に奔走するようになり、翌53年には全国離島振興協議会の幹事長に就任、協議会の機関紙として『しま』を創刊している。そして同じ年の7月22日に離島振興法が公布・施行されると、翌年には全国離島振興協議会初代事務局長になっている。」4)
宮本は地域に住む人びとの「小さな歴史」を丹念に記録し、それに基づいて少しでも庶民の生活が良くなるようにという思いを持って行動していた。“傍流”の立場から一貫して民衆の本当にためになることを研究し実践したのである。
“世間師”の存在
組織を内から発展させる者はどのような存在なのだろうか。宮本常一は著作の中に、“世間師”ということばを登場させている。“世間師”とは何だろうか。
「日本の村々を歩いてみると、意外なほどその若い時代に、奔放な旅をした経験をもった者が多い。村人たちはあれは世間師だといっている。旧藩時代の後期にはもうそういう傾向がつよくでていたようであるが、明治に入ってさらにはなはだしくなったのではないだろうか。」5)
「生まれた土地から移動し、違う場所で日を送ることは、外の「世間」を知る経験でもあります。そんな移動する人たちのなかでも、宮本が記録した「世間師」は、複数の世間を渡り歩き、放浪の旅をして帰ってくる存在です。共同体の外側にある文化や産業、生活といったものを見て歩き、その価値を自らの共同体に持ち帰る。共同体の漸進的発展は、しばしばそんな世間師によってもたらされたのです。」1)
その世間師の中でも文字を解するものは、外で得た見分を用いて自らの村を発展させる使命があると、自らを考えていたようだ。
「文字を解する者はいつも広い世間と自分の村を対比して物を見ようとしている。と同時に外から得た知識を村へ入れようとするとき皆深い責任感をもっている。」5)
組織を発展させる内発的な力は、“世間師”によってもたらされた。一端慣れ親しんだ組織を離れて、他で学び、また戻ってくるという循環が、今の医療の中では本当に大切なことのように思える。特に都市部を離れ、地域医療に貢献することで、日本全体を俯瞰的に観る目が養われるからである。日本の医療、医療制度の在り方を現場感覚で考えることのできる人材が必要なのである。
宮本常一自身も、この“世間師”として生きた例である。
「民俗学者として、私たち庶民が少しでも豊かになるにはどうすればよいか、どんな工夫をしていけばよいかを考えながら日本列島各地を旅してまわったことには、まさに世間師の視点がありました。
宮本は調査研究と並行して、列島各地の産業、文化、さらには芸能に至るまで、地域振興の実践に尽力し続けました。民俗学者・宮本常一は同時に世間師そのものであったのです。」1)
宮本の育った周防大島は、ハワイへの出稼ぎの多い島として知られていた。
「ハワイ王朝政府との移民条約によって明治18年から9年間の官約移民の渡航者は総数29,000余名、うち、山口県から10,400名を数え、大島からは4,000名がハワイに渡った歴史がある。 昭和元年(1926)の海外在住の周防大島出身者はハワイ、アメリカ本土、南米等あわせて6,249名との記録が残っている。当時の人口が57,000人だから移民率は11%と驚くべき数字だ。当時、 海外から大島に送られてきた現金は226,300円といわれており、現在の貨幣価値で9~10億近い金額である。海外で稼いで故郷の家族に送金するハワイ移民の島、まさに海外への出稼ぎだ。」6)
離島は閉鎖的というイメージがあるかもしれないが、周防大島はすでに世界と直接つながっていた。宮本常一が、島内で唯一の“世間師”であったわけではなく、外に開かれた“気風”の中で大きく育てられた一人なのかもしれない。
調査する側とされる側の関係と配慮
調査者と調査される側には力関係がある。中央と地方、学者と庶民といった関係性である。
「『忘れられた日本人』5)には調査者への抵抗や違和感は見られませんが、調査される側には、時に調査者により迷惑を及ぼされるという現実があることに、宮本は自覚的でした。」1)
「民俗学以外にも人類学者や社会学者、歴史学者など、フィールドワークを行うさまざまな学者がいますが、「学問のため」という名分で、上から目線で一方的に質問する場合があるのです。それは学者だけでなくジャーナリストも同様です。
『調査というものは地元のためにはならないで、かえって中央の力を少しずつ強めていく作用をしている場合が多く、しかも地元民の人のよさを利用して略奪するものが意外なほど多い』と宮本は指摘しました。」1)
昨今の観光ブームの中で、観光客と地元の人びとの間で軋轢が問題視されているが、宮本はかなり前からこのことを取り上げている。
「1964年に著された『離島の旅』のなかで、宮本は観光旅行ブームについて次のような卦見解を示している。『今日観光ブームといわれているが、観光客がいったいどれほど観光地に住む人たちの邪魔をしないで寄与しているであろうか。』その生活を破壊する側に回っていても、助ける側に回っているものは少ない。」4)
「『観光』が観光客本位のものになり、観光地はいつも利用される側に回って、観光地が資本家の手によって植民地化されている。地方の資本が伸び、それが植民地主義に対抗して、地方の文化・経済が自立できるようになるべきだ。その方策が立てられないかぎり、地方はいつも食い物にされ、犠牲にされ、文化の恩恵を歪められた形で受けることになる。地方を訪れる人のなかには、本当に地方の生活を見、そこに住む人びとの生活に深い関心をもち、地方文化開発の協力者になる人も少なくない。そういう人に僻地の民衆の生活や歴史がどのようなものか知ってもらいたい。そして地方の民衆の生活に目を向け、よき相談相手になってもらいたいと宮本は望むのだった。ラジオやテレビや新聞で得られる知識ではなく、
現在の生活をその地で立てていくにはどうすればよいかという具体的な問題をともに考えてくれる人を地方は必要としているのだ。」4)
インバウンドにおける観光地での問題が叫ばれる中、宮本はストイックに地方の自立を目指していた。観光における地域の搾取から、自立に向けた相互扶助が、宮本の哲学であったのである。
生き残るための知恵 栽培穀物の多様化 一つにしぼるのは食糧事情のリスク
宮本は食糧に関しても非常に詳しく調査している。
周防大島では、かつて芋、そして米の栽培が盛んであり、65,000の人口を支えとなっていたことが記されている。今ではそれらの土地はミカン畑へと変化しており、他の地域から穀物を“輸入”しなくては生活ができない。宮本の「小さな歴史」を紐解くと穀物の多様化対策はそのまま飢餓対策につながることがわかる。
「大きな課題は過去の歴史に学ぶことが大事といわれる。瀬戸内海に浮かぶ周防大島町(屋代島)は面白い歴史に満ちている。江戸時代は飢饉が相次ぎ日本全体としての人口は増えていない。武士を除いて2500万人前後で推移したにもかかわらず周防大島では爆発的に人口が増えた。元文2年(1737)15,033人、天保13年(1842)60,706人と105年の間に4倍に増えている。日本中これだけ人口増加した地域は他にないと思われる。要因はサツマイモと出稼ぎである。コメは半分以上年貢として収めるのに対し、サツマイモは野菜とみなされ年貢の対象にならず作ればつくるほど自分のモノになった。やはり経済的な自立が地域の発展には欠かせないことを歴史が示している。」6)
宮本は、江戸時代後期の飢饉を分析し、穀物を米に一本化したことが主な原因だと述べている。
「享保(註:1716年から1736年、徳川吉宗の時代)以後の百姓一揆をみますと米を厳選されたということが原因になっておることが多いのです。とにかく到るところで米をつくるようになりました。特に東北の南部藩などでは稗を作ることを止めてさせおります。このように米一本に変わって来たことが、私は德川時代中期以後における飢饉頻発の大きな原因ではなかったかと思います。享保、天明、天保、この時期の飢饉の惨状というものは、もう皆さん、すでにご承知のことでありますが、その時代最も飢饉の悲惨な害を受けたのは、秋田、津軽、それから山形等、日本海岸の今日一番たくさん米のできる平坦地帯です。ところが山を越えて南部へはいってしまうと非常に被害が少ない。なぜ少ないかというと、これは稗地帯なんです。あの当時の記録を読んでみますと、稗のできは7部作、ないし8部作と書いてある。一番生活程度の低い山中の人達はかえって飢饉の惨害に遭ってなかったということは興味ある問題であります。」7)
「これは大正9年の飢饉のときも同様でして、その時も北上山中での稗のできはだいたい8部作です。かなりによくできております。したがって被害をあまり受けていない。つまり米作一本に変わって来たことによって徳川中期以降の、あの悲惨な飢饉の頻発がみられたということが、一応いわれるだろうと思います。」7)
「それと同時に食べ物が次第に単一化されて米食中心に統一されたということも忘れてはならないと思います。稗とか粟とかいうものが食べられる以外は、古くはわれわれは芋をずいぶん食っております。芋といいましても、ここでいうのは、まず里芋であります。里芋をわれわれの食物にした地帯というものはたいだい山中地帯、低湿地に見られます。これは非常に興味深いことです。里芋というものは相当広く食われておったに違いない。なぜそういうことがいわれるかというと、お祭りに里芋を食う行事が相当たくさんある。」7)
今後の食糧供給を考えると、いずれも興味深い指摘である。芋は栽培も比較的容易であり、見直されても良いかもしれない。
結語 宮本常一の旅が示唆するもの
宮本常一は、地域の民衆という「小さな歴史」を描き出す事に注力し、学問の世界では“傍流”に位置しながらも、「人の見のこしたもの」に関心を寄せた。教育も単なる標準化ではなく、傍流も学ぶような余裕が、学問の奥行を深めるのに必要と考えられる。
宮本は、「小さな歴史」から学んだことを農業指導、地域振興への具体的行動に落とし、実践していった。このような学びと実践による生き様は、大学のカリキュラムで学べるようなものではない。自ら学び続ける人にしか得られない境地である。
そして、それぞれの組織には、組織の外に出て見分を深め、帰って来て、その組織の発展に力を発揮するような“世間師”にあたる人材が必要である。
専門医学教育を教えられることに慣れすぎてしまった学生たちが、社会とのつながりにも関心を寄せ、イヴァン・イリイチ(Ivan Illich、1926~2002年:オーストリアの哲学者)の提唱した“脱学校”、つまり制度の「教えられ、学ばされる」という関係から、「自ら学ぶ」という行為へと変換していくことを願っている。
Abstract
Japanese Traditional Herbal Medicines (Kampo) and Everyday Plants: Roots in Japanese Soil and Culture. vol.77;
Miyamoto Tsuneichi focused on portraying the "small histories" of local people, and although he was a "side stream" in the academic world, he was interested in "what others have left behind."
Education also should not simply be standardized; We believes that having the flexibility to study side streams is necessary to deepen the depth of academic study.
Miyamoto paid attention to not the "big history" of rulers as recorded in history books, but the "small history" of ordinary people on the ground. Moreover, he put what he learned from "small histories" into practice, providing agricultural guidance and concrete actions for regional development. This way of life, based on learning and practice, is not something that can be learned in a university curriculum. It is a state of mind that can only be attained by those who continue to learn on their own.
And each organization needs people who can act as "people's teachers" who go outside the organization to deepen their insight, return, and contribute to the organization's development.
We hope that students who have become too accustomed to being taught specialized medical education will also become interested in connecting with society and will engage in the "deschooling" advocated by Austrian philosopher Ivan Illich (1926-2002), that is, a shift from an institutional relationship of "being taught and being made to learn" to the act of "learning for oneself."
参考文献
- 畑中章宏:NHK100分で名著 宮本常一 忘れられた日本人,NHK出版,2024
- 宮本常一:民俗学の旅,講談社。1993
- 宮本常一:宮本常一著作集第1巻 民俗学への道,未来社.1998
- 畑中章宏:今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる,講談社,2023
- 宮本常一:忘れられた日本人,岩波書店,1984
- 山口県周防大島町長 椎木巧:瀬戸内のハワイ 周防大島町の驚愕の歴史
https://www.zck.or.jp/site/essay/5827.html - 宮本常一:食生活雑考,未来社.1977
投稿者:田中耕一郎
カテゴリー:漢方薬と身近な食材
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