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日本の土壌と文化へのルーツ⑨ 奇妙な生薬 冬虫夏草
東邦大学医学部
東洋医学研究室
田中耕一郎
東洋の奇薬?
東洋医学の生薬の中に、冬虫夏草という貴重な生薬がある。冬虫夏草には、狭義のものと一般的に用いられる広義のものがある。
冬は虫、夏は草に姿を変えることから名づけられたチベットの生薬、これが狭義の冬虫夏草の由来である。実際にはコウモリガ科の蛾の幼虫に寄生する菌である。夏に蛾が産卵し、孵化した幼虫に、菌(ナツクサフユムシタケ)が感染し、菌糸を徐々に虫体内に増やしていく。この時期は“冬虫”の状態である。春になると幼虫の滋養分を使用して、成長が加速し、夏には菌糸を大きく幼虫の外に出す。これが地上からは芽(子実体)が出てきて草のように見える“夏草”の時期である。幼虫はすでに“ミイラ”になっており、外観は幼虫であるものの、別の生命である菌に乗っ取られている。
冬虫夏草は、チベット由来の滋養強壮、不老長寿の効果を有するとされた伝説の生薬であり、生薬としてはもちろん、薬膳としても非常に高価な食材である。
“ミイラ”化した幼虫を使う処方には、他にビャッキョウサンがある。これは蚕の幼虫に、ビャッキョウサン菌が感染して死亡した虫体である。抗痙攣薬として用いられるが、蚕がビャッキョウサン菌により動きを止められ、徐々に硬化していく様子と、激しく筋肉が緊張し、震える様子とが、全く逆の表現型であり、相殺し合うと考えられたのであろうか。東洋医学の生薬は、自然界の現象を注意深く観察する事で、その動植物が見せるふるまいが、人間のどのような症状に対応するかを洞察しながら選ばれてきた。
広義に用いられる冬虫夏草とは、昆虫、クモ類などを宿主として寄生し、その宿主を殺して、その体を栄養源として成長する菌類をいう。広義の冬虫夏草は世界では580種程度が知られているが、日本では300種程度を有している。
チベットの生活環境 ~狭義の冬虫夏草~
特定の昆虫(コウモリガ)Hepialus armoricansの幼虫が、特定の菌(Cordyceps sinensis (Berk) Sacc)に感染したものを特定の地域(中国の青蔵高原およびその周辺)で採集したものを指す言葉である。1) 広義の冬虫夏草に非常に豊富な日本では、この狭義の冬虫夏草は生育することが出来ない。
狭義の冬虫夏草の産地であるチベット、青海省などは海抜4000mの高山に分布している。チベット自治区の中心であるラサは、日本では富士山の山頂(3776m)程度の標高に位置するが、チベットの中では標高の低い位置にある。緯度は29度で、日本では沖縄付近に辺り、酸素濃度は薄いものの、夏の最高気温は22度程度、冬の最低気温は-10度と、高地に位置しながら、比較的過ごしやすい。 一日での気温の上下が激しく、真夏でも朝方は9度程度、日中には22度、真冬は-10度から日中は7度近くに上昇する。一日においても15度前後の寒暖の変化があるのである。
チベット自治区に入るには、パスポートとは別に、中国国内で別の許可書を取らなくてはいけない。個人で入域するためには、多少手間がかかり、外国人であるためにガイドをつける必要がある。今回の旅では、ガイドはモンゴル人で、チベット仏教を信仰しているとのことであった。信仰の面でモンゴルはチベットに大きな影響を受けている。モンゴルにも独自の伝統医学(蒙族医学)があるが、中国、チベットの双方の影響を特に受けている。
8月のチベットのラサ空港に降り立つと、強い陽光と真っ青な晴れた空が迫ってくる。太陽にわずか4000m程度近くなっただけなのだが、皮膚を照りつける光と熱から、天空に非常に近くなったように感じさせる。まさに世界の屋根である。あまりに強い日差しのために、鉄鍋を凹レンズのように使って、夜間を集光する一点におくと、しばらくすると水が沸騰する。茶を嗜むのにガスも電気もいらないのである。
一方、湿度は低く、乾燥しており、空気に重さはないために、天空の城であるポタラ宮が位置するのにふさわしい清涼感がある。
空港からラサの中心部に向かうと、この一帯は広い高原に位置し、中心に川がゆったりと流れて、周囲は低い草がおとなしい緑で彩られている。雨季の6月から9月には夜間にしっとりと雨が降り、日中は太陽が照りつける。時に日中にも雨が降り、観音菩薩の化身とされる綺麗な円形の虹が空に浮かび上がる。チベットの人々は、それに手を合わせる。
ラサ到着の初日は、ガイドからは、飲酒も禁止で、ホテルの部屋でゆっくり寝ているように言われた。高山病予防のためである。四川の成都(標高700m)から飛び立ち、4000mのラサへと急激に気圧と酸素濃度が変化するために、身体を適応させてから動き出す必要があるのである。そのため一寝入りしてから、ホテル周囲を動くこととした。チベットといってもラサの中心部であるバルコルは道行く人も多く、飲食店も立ち並ぶ街で、観光客も多い。かつての秘境のイメージは薄れて来ている。とはいえ、かなり遠くへ来た気分にさせてくれる。
狭義の冬虫夏草の薬効
冬虫夏草はチベット有数の医薬品であるために、観光客向けの土産物の店では大きな看板が掛っている。現在では中国国内での消費も富裕層を中心に拡大し、価格も高騰している。ガイドも様々な土産物屋に連れて行ってくれるが、冬虫夏草の店は高価過ぎて少し敷居が高いようだ。現在では日本円で一本1000円程度、一度に2、3本程度は必要である。また、小麦粉、トウモロコシ粉でつくられた偽物も多いので注意が必要である。
朝早い内にラサを出発し、郊外に出ると道端で車に声をかけてくるチベット人がいる。傾斜のある山肌で朝に採集してきた冬虫夏草を売っているのである。 “草”の出切ったもの、宿主の幼虫が老化したものでは薬効が落ちるとされ、注意深く観察しながら、品質を見て行く。
宿主となるコウモリガには、標高3800-4600mの大きな樹林のない草原地帯で、高山寒帯の“草”である食蓼属、黄耆属、酸模属などコウモリガの幼虫が好む植物が必要である。標高が2500m以下になると亜熱帯樹林が増え、コウモリガの幼虫が好む植物がいないために、冬虫夏草は生育できない。逆に標高5000mは一年中積雪があるためにコウモリガも植物も生育出来ず、冬虫夏草も見られない。コウモリガはチベットの土壌で、卵から成虫になるまで、4年以上かける。地下20cm程度の傾斜したトンネルを掘って生活し、植物の地下茎を食べて、越冬する。2年という長い幼虫期に、冬虫夏草からの胞子が、コウモリガの幼虫の皮膚や、幼虫が食する植物に付着する。これが冬虫夏草の”冬草”の始まりである。その後、皮膚に付着した胞子は、発芽して発芽管を伸ばし、幼虫の皮膚に穴を開けて体内に侵入する。幼虫のタンパク質を栄養源にして菌糸細胞を増殖させ、次第に伸長して糸状菌となる。やがて、幼虫は動きが鈍くなり、死期を悟るのか、地面に近いところへ移動し、頭を上にして、死を迎える。菌糸はさらに増殖し、菌糸の塊(菌核)になる。この時、内臓などの柔組織は破壊され、菌糸がぎっしりと詰まった屍体、“ミイラ”のようになって幼虫は死ぬ。その後、4月下旬から気温が上がるにつれて、外観はまだ生きているように見える幼虫の頭部から一本の子実体が垂直に上へと伸びる。これが冬虫夏草の“夏草”の状態である。1)
冬虫夏草はもともとチベット医学由来のものだが、中国にも生薬として取り入れられていった。シルクロードなどを通じて入ってきた他の地域の伝統医学や、中国国内での少数民族が用いていた生薬を、東洋医学のフィルターを通して、東洋医学流に薬効を解釈し直して、生薬の分類体系の中に組み込んで、東洋医学は、発展してきた。東洋医学はこの種の融合が得意である。
冬虫夏草は、アンチエイジング、病中病後の身体機能の低下、免疫機能活性化に用いられている東洋医学の重要生薬の一つである。加齢に伴う諸症状を東洋医学では腎虚という。虚とは機能的低下とそれを支える成分不足を意味している。東洋医学における“腎”とは、現代医学的には腎臓はもちろん、生殖系統、副腎機能、骨機能なども包含する広範な機能系統である。冬虫夏草は、腎の機能的低下(陽)とそれを支える成分不足(陰)とを補い、加齢に伴う諸症状を軽減していく。また、標高4000mという酸素濃度の低い高地を好んで育つために、低酸素環境に強く、肺の機能を高めるとされ、慢性的な肺機能低下(肺虚)に用いられている。
冬虫夏草は動物のもつ動と、植物の有する静の性質を共に有する事からバランスの良い生薬と考えられ、大きな副作用もなく、幅広い体質に使える利点がある。
冬虫夏草はチベットの厳しい寒さ、気温変化、乾燥、低栄養、低酸素に対して、非常に優れた忍耐力を発揮する。1)この性質は、薬効によく反映されており、加齢による寒さ、乾燥、栄養状態不良、肺機能低下などにも良く用いられてきた。また抗腫瘍効果があるともされてきた。疾患に応じて、他の生薬とも混ぜて使用される。蛤蚧(ヤモリ)も肺機能を高めるとされ、冬虫夏草と合わせて粉末で用いられる。炎症が強い場合には、冬虫夏草、蛤蚧とも不向きである。
薬膳では冬虫夏草はスープに用いられる。鶏肉と合わせて煮込むとインポテンツに、雄の鴨肉と合わせると体力低下時の喘息によい。また、肺結核患者の薬膳に百合と一緒に用いられてきた。菌類の独特の香りを有するが抵抗なく飲める。
冬虫夏草の菌体成分
広義の冬虫夏草
結語
チベット由来の冬虫夏草という不思議な名の生薬がある。チベットの厳しい寒さ、気温変化、乾燥、飢え、低酸素に対して、非常に優れた忍耐力を発揮するコウモリガの幼虫に冬虫夏草菌が寄生して、お互いに熾烈な生存競争を戦わせた結果の生まれた生薬である。
過酷な自然を生き延びる二つの生物、つまりコウモリガと冬虫夏草菌の性質は、薬効によく反映されており、加齢による寒さ、乾燥、栄養状態不良、肺機能低下などによく用いられる。抗腫瘍効果は、二つの生命の熾烈な戦い、つまりお互いに異物を排除して生き延びようとする行為の結果生み出されたものから生まれるのであろうか。
古来より薬膳にも用いられ、非常に可能性を秘めた生薬であり、作用機序など研究が進むことが期待される。
参考文献
Abstract
Japanese Traditional Herbal Medicines (Kampo) and Everyday Plants: Roots in Japanese Soil and Culture. vol.8;
Koichiro Tanaka, Toho University School of Medicine, department of Traditional Medicine 2014
Clinical & Functional Nutriology 2014; 6(5)256-8
[200 words/ Word limits: 200 words]
“Winter worm, summer grass” (Cordyceps sinensis), an herbal medicine in traditional Eastern Medicine (Kampo), is a combination of Tibetan plateau indigenous larva and fungus. The desperate struggle for survival of the larva and fungus confer the medicinal value.
The peculiar name literally depicts its growth. A fungus, Cordyceps sinensis (Berkeley) Saccardo that parasitizes the larva of Hepialus armoricans grows and lurks inside in winter, and kills and mummifies the host in summer, sprouting a fruiting body from the larval head.
As Kampo medicine, Cordyceps sinensis invigorates the lung and Jing (essence), the primal function of life governing reproduction, development, and aging, and a key for anti-aging. Cordyceps sinensis helps fight exhausted lung function and weakened Jing due to aging manifested as coldness, dryness, and malnutrition, mirroring viability of the larva and fungus in the harsh Tibetan highland climate. It also exerts antitumor effects, reflecting fierce host-parasite battles to eliminate extraneous elements. As remedial soup, stewed with chicken, duck, or lily, it treats impotence, asthma, or pneumonia.
This rare animal-plant (movement-stillness) combination based on careful natural observation creates the well-balanced valuable remedial properties and diverse uses. More potentials of Cordyceps sinensis may be waiting to sprout from the ground of research.
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