沖縄の恩師との思い出に関する記事を日本医事新報に掲載させていただきました。
3月1日に発行された日本医事新報5262号のプラタナスと言う口に沖縄で出会った恩師との思い出に関する記事を掲載していただきました。素晴らしい指導医がいたことを多くの方に知っていただく機会として、是非ご一読いただきたく、日本医事新報様からのご承諾をいただきましたので、こちらに転載させていただきます。
『週刊日本医事新報』5262号,web医事新報より転載
https://jmedj.co.jp/
https://jmedj.co.jp/journal/paper/detail.php?id=25995
『週刊日本医事新報』5262号,web医事新報より転載
https://jmedj.co.jp/
https://jmedj.co.jp/journal/paper/detail.php?id=25995
糞線虫から始まった冒険 ——遠藤先生の思い出
東邦大学医学部総合診療・救急医学講座 教授 佐々木 陽典
筆者は母校での研修医時代に臓器別診療への疑問を感じ、教授のツテで卒後3年目に沖縄県立中部病院に無給医として潜り込んだ。
中部病院での当直で、発熱と血圧低下をきたしたステロイド服用中の高齢者の診療に当たった。熱源はわからなかったが、重症化が怖くて、尿に少数のグラム陽性球菌を認めたことから、腸球菌による尿路感染症として、広域抗菌薬を開始した。翌朝、遠藤和郎(当時の感染症科部長)は私にこう言った。「先生は本当にグラム染色に基づいて抗菌薬を選択した?ただ怖かったから広域抗菌薬を選んだだろう?診療指針通りだから、他の病院では誰も先生を責めないだろう。でも、私はこの選択を非難したい。先生はわざわざ無給でこの病院に勉強しに来たのだろう?そんな思いまでして、何をしに来たのか自分に問い直して欲しい。」放っておけば半年で消える石ころのような私に対して、真っ直ぐに向き合ってくれた先生の言葉に「こんな情熱的な教育者がいるのか!」と衝撃を受けた。
その後、沖縄の風土病である糞線虫症に関連したStreptococcus bovis(当時の呼称)髄膜炎の症例を経験し、遠藤先生から症例報告を書くように勧められた。まごまごしていると、強い口調で「書くのか書かないのかどっちだ!書かないなら俺が書くぞ!」と言われ、勢いに押されて「私が書きます!」と宣言してしまった。案の定、執筆は思うように進まず、お蔵入りになってしまった。そんな折、遠藤先生が病に倒れた。症例報告を書き上げていないことが後ろめたく、病室を訪れられないまま、先生は50歳の若さで逝去された。
翌年、石垣島に赴任した卒後8年目の私は、遅ればせながら、遠藤先生に顔向けできるようにと論文を書き始め、様々な先生方の助けを借りて、HTLV-1キャリアの糞線虫症関連髄膜炎21症例のCase seriesを学術誌Infectionに掲載させることができた。論文が掲載された時の喜びは今でも忘れられない。
その喜びが忘れられず、その後、私は臨床の傍ら、疫学研究を学び、Common diseasesの臨床研究論文を書き続け、気がついたら母校の教授になっていた。今思えば、この冒険の日々の始まりは、遠藤先生のあの日の言葉である。
遠藤先生のお墓参りには、まだまだ行けない。
東邦大学医学部総合診療・救急医学講座 教授 佐々木 陽典
筆者は母校での研修医時代に臓器別診療への疑問を感じ、教授のツテで卒後3年目に沖縄県立中部病院に無給医として潜り込んだ。
中部病院での当直で、発熱と血圧低下をきたしたステロイド服用中の高齢者の診療に当たった。熱源はわからなかったが、重症化が怖くて、尿に少数のグラム陽性球菌を認めたことから、腸球菌による尿路感染症として、広域抗菌薬を開始した。翌朝、遠藤和郎(当時の感染症科部長)は私にこう言った。「先生は本当にグラム染色に基づいて抗菌薬を選択した?ただ怖かったから広域抗菌薬を選んだだろう?診療指針通りだから、他の病院では誰も先生を責めないだろう。でも、私はこの選択を非難したい。先生はわざわざ無給でこの病院に勉強しに来たのだろう?そんな思いまでして、何をしに来たのか自分に問い直して欲しい。」放っておけば半年で消える石ころのような私に対して、真っ直ぐに向き合ってくれた先生の言葉に「こんな情熱的な教育者がいるのか!」と衝撃を受けた。
その後、沖縄の風土病である糞線虫症に関連したStreptococcus bovis(当時の呼称)髄膜炎の症例を経験し、遠藤先生から症例報告を書くように勧められた。まごまごしていると、強い口調で「書くのか書かないのかどっちだ!書かないなら俺が書くぞ!」と言われ、勢いに押されて「私が書きます!」と宣言してしまった。案の定、執筆は思うように進まず、お蔵入りになってしまった。そんな折、遠藤先生が病に倒れた。症例報告を書き上げていないことが後ろめたく、病室を訪れられないまま、先生は50歳の若さで逝去された。
翌年、石垣島に赴任した卒後8年目の私は、遅ればせながら、遠藤先生に顔向けできるようにと論文を書き始め、様々な先生方の助けを借りて、HTLV-1キャリアの糞線虫症関連髄膜炎21症例のCase seriesを学術誌Infectionに掲載させることができた。論文が掲載された時の喜びは今でも忘れられない。
その喜びが忘れられず、その後、私は臨床の傍ら、疫学研究を学び、Common diseasesの臨床研究論文を書き続け、気がついたら母校の教授になっていた。今思えば、この冒険の日々の始まりは、遠藤先生のあの日の言葉である。
遠藤先生のお墓参りには、まだまだ行けない。
文責:佐々木 陽典