東邦大学医療センター佐倉病院 30周年記念誌
そらまめの紋章
東邦大学における腎臓学講座は1980年、東邦大学医療センター大森病院(旧東邦大学医学部付属大森病院)に当時としては珍しく「腎臓病の生涯医療」をテーマに、腎臓内科医、泌尿器外科医、腎臓小児科医によって構成された臓器別の診療科として腎臓学講座(大森)が設立されました。さらに2007年に東邦大学医療センター大橋病院に旧第三内科から派生・独立し、腎臓学講座(大橋)が設立され、「慢性腎臓病(CKD)と心血管疾患」に専心されています。これら大森・大橋の2病院の流れを汲み、「腎臓病と健康」をテーマに2016年5月に腎臓学講座(佐倉)が開設されました。
開院以来、佐倉病院では腎臓内科医が不在でした。しかし、徐々に病院の規模が拡大され、臨床範囲も広がる中、診療においても臨床教育を進めていくためにも腎臓内科医の招聘が喫緊の課題となっていました。2015年秋、大森腎センター教授相川先生・酒井先生から私のところにその話が届きました。当時、私は研究留学から帰国し、大森病院腎センターで臨床フロントラインから一歩身を引き、後進の育成のため研究および教育に携わっていました。「本気ですか、僕が大森腎センターから抜けて大丈夫ですか?」、決して奢った発言のつもりはなく、大森腎センターを憂いてのことでした。当時の佐倉病院の執行部の長尾先生、吉田先生、蛭田先生ならびに鈴木(康)先生、龍野先生から三顧の礼を頂き、熟慮と議論の結果、東邦大学の一員として佐倉病院の発展に寄与しよう、3病院に腎臓学講座ができる歴史を作ろう、求められる場所で最大限の仕事させていただこうと考えました。ただ、これを決断した時、赴任する人間は私一人でした。「さあ、どうしようか…」、少々途方に暮れている自分に「僕行きましょうか?、先生となら面白そうです」、山﨑先生が声をかけてくれました。佐倉病院に赴任すると定まった外来の場所もなく、透析室もなく、「必要な時はここで透析をしています」と言われた場所はICU内の物置き場でした。山﨑先生とユーカリが丘を探検し、ごみ箱とハンガーを買い、がらんとした部屋に荷物を運びいれました。食事箋も腎臓病食や透析食として定まったものもありませんでした。佐倉病院で初めての腎生検で腎周囲出血を起こし、仮眠をとる場所もなく椅子に座ったまま一夜を過ごしました。今まで普通にあったものがない-まさにここは腎臓病診療から隔絶された異文化世界でした。さながら日本に漂流した外国人、皆さまから見れば私と山﨑は違う国から来た「異形の天狗」であったでしょう。
「一体、なにを始めるつもりだ」、私たちを訝しがる方もおられました。その中で3西病棟の飯塚師長、ICU病棟の工藤師長には心を砕いていただき、栄養部の鮫田先生のお力を借り、腎臓病食事箋を一から作り上げました。透析業務の取り決めは何度もME部と話し合いを重ねました。飯塚師長の提案で、外来の初診や患者さんの指導にはエスカレーター下の物置きスペースも使いました。透析室をどこに拡充するか、腎臓内科の外来をどこにするか長い議論がありました。どの診療科も他者に譲れるスペースはありませんでした。執行部の先生方も頭を悩ませる中、ICU部長の本村先生、循環器科の先生方に4東病棟の一部を譲っていただき、2019年12月ICUに隣接する機能的な透析室6+1床を開設いたしました。外来は小児科の先生にご譲歩いただき外来ブースをお借りすることができました。徐々にそれぞれの診療科の透析患者さんの入院も増えてきました。どんな状況下であれ、その地に根を生やし自ら行動を起こしていかなければ周囲の理解は得られない、しかし慎ましく行動を起こせば必ず助けてくれる人はいるーだから頑張るんだ、諦めるな、頑張るんだーそんなことを学ぶ時間でした。
佐倉病院に赴任すると研修医2年目として石井先生がお仕事をされておられました。石井先生とは彼がM6の選択実習の時にお会いしておりました。私たちとの再会に縁を感じていただき、一緒に働くことを表明していただきました。日高先生は女子医八千代医療センターで研修されており、貝殻亭でお話し、力を貸していただけることになりました。吉田先生は川崎市立多摩病院で研修されており、ある研究会で私の体組成の研究に興味をもっていただき一緒に働いてくれることになりました。高橋先生は内科医としての腎臓医の礎をまず私たちと共に作っていくことを決めてくれました。皆、他の選択肢もあっただろうに、「未来の彼らと私たち」に賭けてくれました。彼らのおかげで私と山﨑は今ここで胸を張っていられます。
明日も具合の悪い腎臓病患者さんが入院してきます。異形の天狗は皆様と5年間苦楽を共にし、「佐倉顔」になれたでしょうか。ふと、大森腎センターの黎明期の先生たちや若い頃に一緒に働いたロクデなしの同僚の顔を思い浮かべることがあります。ただ、そんな遠くの色褪せた歴史とは無関係に、佐倉の地で若者が「そらまめの紋章」を密やかに携え、今を生き、次世代に続いていくことを心から願っています。
末尾になりましたが、佐倉病院30周年おめでとうございます。さらなる佐倉病院の発展と地域貢献を祈念しつつ、ある歴史のはじまりの一片を綴らせていただきました。これにてお祝いの言葉とさせていただきます。
文責 大橋 靖
開院以来、佐倉病院では腎臓内科医が不在でした。しかし、徐々に病院の規模が拡大され、臨床範囲も広がる中、診療においても臨床教育を進めていくためにも腎臓内科医の招聘が喫緊の課題となっていました。2015年秋、大森腎センター教授相川先生・酒井先生から私のところにその話が届きました。当時、私は研究留学から帰国し、大森病院腎センターで臨床フロントラインから一歩身を引き、後進の育成のため研究および教育に携わっていました。「本気ですか、僕が大森腎センターから抜けて大丈夫ですか?」、決して奢った発言のつもりはなく、大森腎センターを憂いてのことでした。当時の佐倉病院の執行部の長尾先生、吉田先生、蛭田先生ならびに鈴木(康)先生、龍野先生から三顧の礼を頂き、熟慮と議論の結果、東邦大学の一員として佐倉病院の発展に寄与しよう、3病院に腎臓学講座ができる歴史を作ろう、求められる場所で最大限の仕事させていただこうと考えました。ただ、これを決断した時、赴任する人間は私一人でした。「さあ、どうしようか…」、少々途方に暮れている自分に「僕行きましょうか?、先生となら面白そうです」、山﨑先生が声をかけてくれました。佐倉病院に赴任すると定まった外来の場所もなく、透析室もなく、「必要な時はここで透析をしています」と言われた場所はICU内の物置き場でした。山﨑先生とユーカリが丘を探検し、ごみ箱とハンガーを買い、がらんとした部屋に荷物を運びいれました。食事箋も腎臓病食や透析食として定まったものもありませんでした。佐倉病院で初めての腎生検で腎周囲出血を起こし、仮眠をとる場所もなく椅子に座ったまま一夜を過ごしました。今まで普通にあったものがない-まさにここは腎臓病診療から隔絶された異文化世界でした。さながら日本に漂流した外国人、皆さまから見れば私と山﨑は違う国から来た「異形の天狗」であったでしょう。
「一体、なにを始めるつもりだ」、私たちを訝しがる方もおられました。その中で3西病棟の飯塚師長、ICU病棟の工藤師長には心を砕いていただき、栄養部の鮫田先生のお力を借り、腎臓病食事箋を一から作り上げました。透析業務の取り決めは何度もME部と話し合いを重ねました。飯塚師長の提案で、外来の初診や患者さんの指導にはエスカレーター下の物置きスペースも使いました。透析室をどこに拡充するか、腎臓内科の外来をどこにするか長い議論がありました。どの診療科も他者に譲れるスペースはありませんでした。執行部の先生方も頭を悩ませる中、ICU部長の本村先生、循環器科の先生方に4東病棟の一部を譲っていただき、2019年12月ICUに隣接する機能的な透析室6+1床を開設いたしました。外来は小児科の先生にご譲歩いただき外来ブースをお借りすることができました。徐々にそれぞれの診療科の透析患者さんの入院も増えてきました。どんな状況下であれ、その地に根を生やし自ら行動を起こしていかなければ周囲の理解は得られない、しかし慎ましく行動を起こせば必ず助けてくれる人はいるーだから頑張るんだ、諦めるな、頑張るんだーそんなことを学ぶ時間でした。
佐倉病院に赴任すると研修医2年目として石井先生がお仕事をされておられました。石井先生とは彼がM6の選択実習の時にお会いしておりました。私たちとの再会に縁を感じていただき、一緒に働くことを表明していただきました。日高先生は女子医八千代医療センターで研修されており、貝殻亭でお話し、力を貸していただけることになりました。吉田先生は川崎市立多摩病院で研修されており、ある研究会で私の体組成の研究に興味をもっていただき一緒に働いてくれることになりました。高橋先生は内科医としての腎臓医の礎をまず私たちと共に作っていくことを決めてくれました。皆、他の選択肢もあっただろうに、「未来の彼らと私たち」に賭けてくれました。彼らのおかげで私と山﨑は今ここで胸を張っていられます。
明日も具合の悪い腎臓病患者さんが入院してきます。異形の天狗は皆様と5年間苦楽を共にし、「佐倉顔」になれたでしょうか。ふと、大森腎センターの黎明期の先生たちや若い頃に一緒に働いたロクデなしの同僚の顔を思い浮かべることがあります。ただ、そんな遠くの色褪せた歴史とは無関係に、佐倉の地で若者が「そらまめの紋章」を密やかに携え、今を生き、次世代に続いていくことを心から願っています。
末尾になりましたが、佐倉病院30周年おめでとうございます。さらなる佐倉病院の発展と地域貢献を祈念しつつ、ある歴史のはじまりの一片を綴らせていただきました。これにてお祝いの言葉とさせていただきます。
文責 大橋 靖